真田昌幸の天正攻防録 1・真田昌幸の沼田領経略 小川氏の従属 |
勝頼の全面的信頼を得た昌幸 |
天正8年(1580)2月4日、昌幸は沼田領師(みなかみ町)に所在した雲谷寺に対し、沼田領に派遣した目付の帰還への尽力に対して、沼田領経略後に寺領などを安堵することを約束している。これによって、昌幸が武田氏における沼田領経略の担当者になっていることが確認される。 先だって名胡桃城の攻略に失敗した昌幸は、次に沼田領西部の国衆で小川城主の小川可遊斎の調略をすすめた。そして24日、昌幸は小川氏の家臣小菅刑部少輔の調略に成功し、武田氏は小菅氏に、小川城攻略の上で本領の安堵と新たな所領を与えることを約束している。同時に小菅に、小川可遊斎が服属して来たら、所領を安堵することを伝え、可遊斎の服属を促している。 これらは勝頼の印判状で出されているが、その発給を取り次いだ奏者は昌幸である。よって、これらの働きかけは昌幸によるものであったことがわかる。 28日には、昌幸の宿老矢沢頼綱が小菅刑部少輔に、勝頼の印判状を送付したことを伝えている。このことから、昌幸のもとで小川氏の調略にあたっていたのが矢沢頼綱であったことがわかる。この矢沢頼綱は、のちに沼田城代を務めるなど、真田氏の吾妻領・沼田領支配で大きな役割を果たしていく人物であった。 さらにこの頃、勝頼は昌幸の権限を拡大している。3月10日に武田氏は吾妻郡大戸城の城主浦野真楽斎の一族、浦野民部右衛門尉に、沼田領経略の上で一所を所領として与えることを約しており、大戸浦野氏を沼田領経略戦に投入している。 大戸浦野氏は前年の天正7年2月まで箕輪城代内藤昌月の指揮下に置かれていたが、その後、同9年3月には昌幸の指揮下に置かれているから、その間に編成替えがあったことがわかる。ここで大戸浦野氏は沼田領での所領宛行(主人から従者に所領を与える事)を要求しているから、すでに同氏は昌幸の指揮下に置かれて、同領経略にあたっていたとみられる。 |
北条方の反撃 |
これに対して北条氏は、武田氏に服属した八崎長尾氏への攻撃を展開した。 3月14日、北条氏政は富永助盛に対し、八崎長尾憲景の属城多留城(渋川市)を攻め、城代牧和泉守の次男などを討ち取った戦功を賞している。女淵城将の富永助盛が、ここでは八崎長尾氏攻略にあたっていたことがわかる。 いかしこのことは、北条氏が沼田領に対しては、いまだ充分な支援を働ける状態になっていなかったことを示している。沼田領に至る前に位置する、八崎長尾氏の攻略を先にせざるを得ない状態であったからである。 このような状況下で、ようやく昌幸は小川可遊斎を服属させることに成功した。3月16日、武田氏は可遊斎に対し、本領を安堵するとともに、利根河西については荒牧を所領として与え、さらに利根河東についても要望の地を所領として与えることを約し、小川城の維持を指示している。 同時に昌幸は、可遊斎家臣の小菅刑部少輔に、武田勝頼からの起請文を欲しいという可遊斎の要求を受けて、案書(下書き)を送ってくればその発給を用意する事、援軍の要請があれば直ちに派遣する事、可遊斎の所領を安堵する判物(花押が押された文書をいうが、実際は印判状)が出されることを伝えている。 一方北条氏は、閏3月25日、北条氏政が沼田衆木内八右衛門尉に、沼田領吾妻郡猿ヶ京衆と共に上杉方の越後荒砥城(湯沢町)を攻めた戦功を賞している。猿ヶ京城を北条方が維持していたこと、沼田在城衆が猿ヶ京から越後に進軍して、越後上杉氏とも抗争していたことがわかる。 |
昌幸、北条氏邦に撃退される |
しかし、小川氏が武田氏に服属したことによって、武田氏の攻勢は強まっていく。 同月13日に、武田勝頼は矢沢頼綱に書状を送り、矢沢頼綱が勝頼のもとにいる昌幸にあてて送ってきた注進状(報告書)を披見したことを記し、沼田領での合戦で勝利を得たことを褒め、こちらから加勢を派遣すること、昌幸も3日以内に岩櫃城に帰城する事を伝えている。この書状によって、この時昌幸が勝頼のもとに参向していたこと、矢沢頼綱がその留守を担って北条方への攻撃を進めていたことがわかる。沼田領で合戦があったというから、それへの進攻を進めていたのであろう。 4月2日、武田勝頼は小川氏家臣の小菅刑部少輔に対し、昌幸と通じて小川可遊斎を従属させた功績を賞して本領を安堵するとともに、新たな所領を与えることを約束している。これは2月14日に約束していたことを実行したものであった。そしてこの頃には、昌幸は岩櫃城に帰城し、直接に沼田領進攻にあたっていくことになる。 対して北条氏も、氏邦が沼田領に移動してくるのである。氏邦は3月28日の時点で、武田方西上野南部の倉賀野・八幡崎(高崎市)で箕輪衆と交戦していたから、昌幸の岩櫃城帰還をうけて、沼田城防衛のために移動してきたとみられる。 4月8日、昌幸は沼田城に向けて進軍していった。対して氏邦は、利根川の渡河点にあたる後閑橋で昌幸を迎え撃った。ここでは昌幸は氏邦に撃退されている。 12日、氏邦は沼田衆塚本舎人助に、北条右近分鶴根十貫文の所領を与えるとともに、小川城を攻略した際にはさらに所領を与えることを約している。昌幸の進攻を撃退したことから、氏邦が逆に小川城の奪還に動き始めたことがうかがえる。 |