鷹山と農村復興 ~農村人工の確保~ |
農民の年貢負担はもともと過重であった。それは寛永15年(1638)に実施された領内総検地に根差すものであり、隠し田畠の摘発を厳しく行い、一筆ごとの測量を厳密に実施し、田畠の品等位付けも地味以上に高かったことなどに由来するものであった。年貢が過重なため、離村して他領に逃亡したり、大都市や港湾都市に流れていく百姓が多くなって、耕作の引き受け手の無い手余地や荒廃地が続出し、農村の荒廃はひどくなっていた。 元禄以降の領内の人口は、元禄期以降寛政期まで漸減傾向にあった。元禄5年(1692)には13万3259人いた人口が、寛政4年(1792)には9万9085人と10万人を割り込むまでになった。このような領内人口の減少は、主として農民数の減少に基づくものであり、生活困難に陥った農民は欠落したり、間引きしたりするための人口減と見ることができる。寛政期以降は人口が増加に転じており、これは鷹山の藩政改革の効果が徐々に表れていた結果と見ることができる。 藩の財源を支える年貢皆済の実現こそが緊急に取り組まなければならない政治的課題であった。疲弊している農村に活力を呼び戻し、農村人口の減少に歯止めをかけ、漸増させるような思い切った施策が必要であり、そのためには大胆な藩政改革の断行こそが急務の政治課題であったのである。
農村人口を増やすために、15歳以下の子が5人いる農家には、末子が5歳になるまで1人扶持を支給して、子女の養育を側面から援助する方策を講じた。結婚は男子17~20歳、女子14~17歳までの間に行わせる早婚を奨励し、早く子供が生まれるようにして能存人口の増大を図った。その他、「懐胎女改帳」をつくらせて妊婦を登録し、出産予定日、流産、死産の別、健康の良否について肝煎から藩に報告させている。 また、武士身分であっても、二・三男や伯父、甥などが農村に土着し、農耕に従事しようとする者には、それ相応の田畠や住宅を提供し、土着し、手余地や荒廃地の耕作に従事した最初の年度は夫食籾を貸与し、年貢は3年間免除し、4年目からはその土地相応の年貢を納めるようにする,との優遇措置のもと奨励した。それほどまでに農村には手余地や荒地が存在していたのである。離村した農民が帰村し、帰農するようにとの呼びかけは始終行われ、間引き禁止による農村人口の確保にも努めた。 新百姓を取立て荒廃地を開墾し、手余地の耕作に当たらせて田畠面積の増大を図るために、越後・最上・福島に限らず、どの領国からも入百姓を勧誘し、入国の上、定住するよう呼びかけた。 越後長岡領漆山村の大庄屋田辺休弥の弟玄徳は江戸で開業医として上杉氏の桜田邸にも出入りしていた。桜田邸の留守居役登坂甚兵衛と懇意となり、登坂から、米沢藩内で農民の人手不足のため手余地や荒廃地が多く、越後からの入百姓を世話してもらえまいか、との依頼を受けた。この時、玄徳は田辺家の先祖はもと上杉氏の家臣であり、兄の休弥は信仰心の強い仏教徒なので、本伝寺の末寺さえ米沢藩内に建立を認めていただければ、越後からの入百姓は可能であろう申し述べている。
休弥の死後、九代藤右衛門が家督を継ぎ、椿・小白川・宮・中・九の本村の荒廃田400石余の開発を引き受け、100戸余りの入百姓を越後から移住させている。十代庄七郎は天保3年(1832)に洲嶋・畔藤両村へ入百姓20戸を入植させている。十一代藤右衛門は越後の方は弟に任せ、天保5年に妻子を伴って椿村に移住し、最初は本長寺に仮住まいし、のち小白川村に家を建て定住するようになった。十二代藤右衛門は安政6年(1859)に手ノ子村向原の廃堰を再興し、新田開発を実施している。さらに、文久3年(1863)には板谷・大沢両村にも越後の入百姓を世話し、開発に当たらせている。 入百姓が開発した土地自体は条件の良くないところが多く、それだけに、土着後の生活は一般に窮乏した状況に置かれていたし、年貢の未納、救米の貸与、乳児の養育費の貸与などに追い込まれ、入百姓としての生活は入国当時から幕末にかけて決して恵まれたものではなかった。それでも、入百姓たちが越後を越えて米沢へ来たのは、開発の指示に当たった田辺家との連携が密であり、本長寺に対する信仰を絆に「田辺下」という形で入百姓同士の結びつきが強かったからである。 無論、越後はもともと上杉氏が統治していたところでもあり、上杉氏に対する懐旧の情や法華宗の救線拡大といった理由もあっただろうが、それとともに越後領内における農民たちの窮迫した状況も十分に考えられ、入国を歓迎してくれる領国があれば移住し、土着したい気持ちが強かったとも考えられる。 |