鷹山と農村復興
 ~農村支配機構の改革~
 


 藩財政の根本の農村
藩財政は、農民から徴収する年貢によって大部分が構成されているので、農村の荒廃はそのまま藩の財源を弱体化させ、ひいては藩政の動揺をもたらす要因となる。従って、農村人口の減少を防ぎ、農業の振興を図る事が農政の基本である事は言うまでもない。
鷹山は農業の振興に殊の外、意を注いだ。鷹山は明和8年(1771)6月に日照り続きのため、農民が困っているのを見て、側近を伴い、遠山村の愛宕山に登り、天に向かい降雨を祈願した。暫く後に一転、俄かに曇り大雨が降ってきたので、大層喜ばれ、雨の降る中、山を下る際に、側近の者が長柄傘を差したところ、雨乞祈祷の効験にて雨が降ってきたもので、天の恵みに対し濡れるを嫌がってはならないと、濡れるままにまかせ帰途についた。農民たちはこれを見て皆感涙にむせび、ひれ伏したという。
安永元年(1772)3月26日、白子・春日両社に参詣後、遠山村において田地開墾の儀式である「藉田の礼」を行っている。鷹山自ら鍬を取って三揆した。執政はその三倍の九鍬、郷村次頭取および郡奉行は四十五鍬、勘定頭次役、代官らは七十二鍬、開作掛は九十九鍬、肝煎二人は300鍬を入れ、儀式は終了した。両社に備えた神酒が奉行から農民に至るまで振る舞われた。「藉田の礼」は中国の周の代、皇帝が行った儀式に基づくものであり、農耕の大切さを教え、開田を奨励する意図でなされたものである。
 支配機構の改革
農村の活性化を図るため、支配機構の改革が実施された。まず明和8年(1771)に郡奉行が設置された。郡奉行は藩政成立期にも設置されていたが、後に廃止されたものを復活させたものである。そのもとに、竹俣当綱は精農主義の見地から郷村教導出役12人と廻村横目6人を新しく設置した。
郷村教導出役は三手組の家中から選ばれ、領内の村を十二に区分して配置し、その任務は①孝悌の教えを広め、勧農思想を説く、②農民から出された訴願のうち、些細なものは自分の責任で決裁する、③農民をだました者や窃盗人を処罰する、④農民が負担する普請や経費を軽減する、⑤人夫役の軽減を図る、⑥給人の非違な要求があれば、これを正す、⑦博徒や歌・三昧・狂言などの遊び事を規制する。郷村教導出役がこのような任務に効力を発揮すれば、「郡中の患離」を救うことができ、「郡中の潤」を再現できると説いている。
郷村教導出役は、天明7年(1787)に志賀祐親の緊縮財政策に基づく役局の縮小により廃止されたが、莅戸善政は寛政4年(1792)に郷村出役の名称で復活させ、6名を配置した。この役職は勧農の教化により精農を説き、藩主の「御恩」に対する「報恩」の意識を昂揚し、年貢皆済に向けての努力を叱咤激励することを任務とする事など、郷村教導出役と同じ機能を有するものである事に変わりはない。
廻村横目も、三手組から6名を選び、その任務は①、米価高騰のため悪行を働く農民を逮捕し、他領の流民が徘徊しておれば追放する、②他領から非人・乞食が入り込んで来たら、追い戻すようにする、③博徒の取り締り、禁制となっている絹布類の着用を糺す、④他領への米の密移出、領内での酒の密売を取り締まる。このように廻村横目は、村落秩序維持のための警察的任務を主としていた。だが、厳しく規制ばかりを押し付けていたわけではなく、農休日や月侍・日侍の打寄り酒で遊楽気分に時たま浸ることは許容しており、まさに「寛猛」の二面から農民に対応していたといえよう。
 時代に見合った改革を
代官はこれまで世襲制であったが、安永元年(1772)に任命制に変え、農政の刷新を農村の最前線で遂行する実務的な人材を抜擢し、効果あらしめるために取られた転換である。代官は管轄する諸村から所定の本年貢や小物成などの貢租を責任をもって徴収する責務を負う重要な役職であった。
村方三役は入札制による選出している村が多かったが、肝煎は寛政3年(1791)に、組頭と長百姓は寛政6年にそれぞれ代官の任命制に変更し、農村支配の指揮系統の強化を図った。
享和元年(1801)に組織された伍十組合は五人組、十人組、組合村を総括した呼称であり、五人組は「むつましく交わりて」」家族の如く、十人組は「親しく出入り」して親類の如く、一村は「救合」って朋友の如く、組合村は「隣村のよしみ」で助け合うようにと、共同体の意識を強調している。
これまで、村内につくられていた種々な契約組があったが、そのうち時代にそぐわない、不都合で不合理な契約組は廃止し、継続したい組合組は伍十組合の中に統合することによって、複雑で錯綜していたこれまでの組織を単純なものに整理し、機能の強化を図ったものである。
農村構造の変質に伴い、藩領主が農民を掌握する仕方も変える必要に迫られてきた。これまでは、手作地主層を農政の末端機構である村役人に組み入れることにより、一般農民を掌握できたのであるが、地主手作経営が解体し、新たに地主小作経営が形成されるにつれ、そのような農村構造に見合った農政の展開が必要となってきた。
年貢収納の実質的な機能を「村」といった規模のものから、さらに小規模な「組」といった単位に編成しなおす必要に迫られてきたのである。「互助親睦」の名のもとに貢租納入に連帯責任を持たせ、年貢皆済を目指し、藩財政の危機を乗り切る一環として結成されたものが伍十組合とみることができる。






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