信之の生い立ち ~二人の妻~ |
信之の最初の実名は「信幸」であったが、関ケ原の合戦後の翌慶長6年に信之に改名している。これは通説的には、徳川氏に反抗して高野山へ配流処分となった昌幸を憚って、昌幸の「幸」を捨てて「之」に変えたといわれることが多いが、実際には慶長13年3月から同17年正月まで、再び「信幸」の名が用いられている。そうすると、昌幸を憚って「幸」字を変えたという理解は直ちに成り立たない。これについては後述する。
信之が清音院殿を妻に迎えたのは、彼女が本来の真田家の正統である信綱の遺女であったからと考えられる。信之は本来、真田家においては庶子家の出身であり、かつ信綱の遺子が存在していたことからすると、信綱の遺女と婚姻して、信綱の系統と、新たに真田家の正統となった昌幸の系統を合体させることで、昌幸の系統をしっかり真田家の正統に位置づけるためのものであったと考えられる。信之は、清音院殿と婚姻することによって、幸綱によって創始された戦国真田家全体の中で、正当の立場を確立させるものとなったといえる。
婚姻の時期については諸説あるが、真田昌幸が羽柴秀吉に上洛・出仕し、家康に与力として付属された天正15年以降であることは間違いない。小松殿の年齢についてははっきりしないが、おそらく信之よりも4~7歳年少ではないかと推測される。また、小松殿が家康の養女かどうかについても確定されていないが、そもそも真田家は家康にとっては譜代家臣ではなく、あくまでも与力にすぎないこと、その時期に真田家と同じ信濃国衆で家康に与力した小笠原貞慶の嫡子秀政にも、長子信康の遺女を養女として嫁していることなどからすると、家康と養子契約を結んだ正式な養女ではなかったにしても、養女の体裁がとられたことは事実ではないか。 信之が小松殿を新たに妻に迎えたのは、その時期に真田家が置かれた政治状況によるものであった。真田昌幸は、羽柴秀吉に従属する「小名」の地位を成立させるが、同時に家康に与力として付属されたから、それは寄親である家康と、与力の真田家との関係の密接化のためであったと考えられる。しかもこの婚姻自体、秀吉の口入という所伝がある。昌幸が秀吉に上洛・出仕した翌年の天正16年4月から、信之は上野沼田城支配を管轄し、秀吉からも一個の「小名」として処遇されるようになる。このこと自体、昌幸と秀吉、家康の合意のもとでのことと思われ、そうした中での信之と小松殿の婚姻であったから、これが秀吉の口入であった可能性は高い。
清音院殿は、「滋野世記」では嫡子信吉の母とされている。信吉は文禄2年(1593)の生まれとみられるが、その母については諸説あり、小松殿とするもの、清音院殿とするもの、「家女」とするものなど様々な見解がとられているが、「滋野世記」に小松殿以外の所伝があることからして、母はそれとは別人と見るのが妥当であろう。 信之には二女・三男があったが、長男信吉以外はすべて小松殿の所生と伝えられている。そのうち長女まんが天正19年生まれ、次女まさと長男信吉が文禄2年生まれだったrしいが、次女まさと長男信吉が同年の生まれで、まさの母が小松殿であるならば、信吉の母はそれとは別人になる。そして小松殿が聚楽邸城下の屋敷に居住していて、清音院殿が領国の沼田に居住していたとすれば、信吉の母が清音院殿であった可能性は高い。 小松殿は、元和6年2月24日に死去する。清音院殿はその前年9月の死去であったから、信之は二人の妻を半年のうちに相次いで失ったわけである。二人の妻は役割を違えて、両輪のごとく、あるいは太陽と月の如く、信之を支えたといえ、最後は時期を同じくするようにして役割を終えている。 |