信之の生い立ち ~信之の系譜~ |
父昌幸は、幸綱の三男に過ぎず、真田家においては庶子の扱いであった。この頃は武田信玄の側近として存在し、武田家の本拠の甲府に居住していたようだ。真田源五郎を称し、次いで喜兵衛尉を称した。したがって信之は、生まれたときは真田家においては庶子の嫡子にすぎなかった。信之が生まれたのもおそらく甲府であろう。その後、昌幸は元亀3年(1572)頃に、武田家親類衆の武藤家の名跡を継いで、武藤喜兵衛尉を称した。ここに昌幸は、国衆の庶子という立場から、武田家親類衆武藤家の当主という立場になり、武田家の譜代家臣としての立場を成立させるのである。 ところが天正3年(1575)5月の長篠の合戦において、真田家当主であった信綱と、その長弟の昌輝が同時に戦死してしまった。信綱には幼少の嫡子がいたようだが、武田家当主の勝頼は、真田家の家督を昌幸に継がせた。昌幸はこのとき29歳。真田家は、武田家に従う信濃国衆の中では最大規模の存在であり、かつ「御譜代同意」と、譜代に準じた処遇をうけ、本領の信濃真田領の他に、武田氏の地域支配の一環として上野吾妻郡を管轄していた存在であった為、幼少の当主ではその役目を果たせないとの判断であったようだ。
ちなみに信之の姉弟としては、姉に小山田(のちに真田)壱岐守茂誠(村松殿)、弟に信繁(源次郎、左衛門佐)、信勝、昌親の3人、妹に保科正光妻、宇田(石田)頼次妻、真田幸政妻、妻木頼照妻、於楽(伊達家中妻)などがあったようである。生年についてはほとんど不明で、出生順なども明らかではない。 そうしたなかで、近世前期に沼田藩真田家の家臣加沢平次左衛門が著した「加沢記」に、天正10年の時点で、信之17歳に対して、村松殿は18歳、「藤蔵信為」15歳、源五郎(昌親)7歳、と記しているのは貴重である。このうち「藤蔵信為」とあるのは、信繁と信勝が混乱しているものと思われる。これによれば姉の村松殿は1歳年長、信繁は2歳年下、末弟昌親は10歳年少ということになる。 但し、信繁の生年についてはほかに諸説あり、元亀3年(1572)生まれという説が有力になっている。これによれば信繁は信之より6歳年少であったことになる。なお、信勝の動向は慶長5年(1600)関ケ原合戦時の上田合戦の時から確認され、昌幸・信繁と共に行動している。昌親の動向が確認されるのは更にそのあとになるが、おそらく関ケ原合戦時には信之と行動を共にしたものと思われる。
小山田氏は甲斐郡内の国衆であると共に、武田家と姻戚関係を結んでいた準一門の宿老で、村松殿が嫁した茂誠はその有力一門であった。保科氏は国衆の出身であったが、武田氏に直臣化した存在で、高遠在城衆の代表者であった。これらの婚姻は、いずれも武田氏が存続している段階で結ばれたものとみられるから、おそらく武田勝頼の指示を受けてのものだろう。 それ以外の妹のうち、次妹の宇田頼次妻は、おそらく昌幸が、羽柴秀吉に従属した天正15年以降の婚姻と推測されるが、関ケ原合戦後に離縁して、その後滝川一積に再稼したという。四妹の妻木頼照と末妹の於楽は、昌幸が第二次上田合戦の結果として高野山九度山に隠棲したのちの出生と伝えられている。 |