大坂の陣における信之
 ~大坂の陣勃発~
 


 風雲急を告げる使者
慶長19年(1614)10月4日付で、酒井忠世・土井利勝・安藤重信という将軍徳川秀忠の江戸年寄3人の連署による書状が、沼田城に在所していた信之に宛てて出された。おそらく2,3日で届いたと思われるので、信之はこれを6日・7日あたりに受け取ったのではないかと思われる。
その内容は、「大坂で片桐市正(且元)と大野修理(治長)の争いがあって、大坂はことのほか騒ぎになっている」ということが、京都所司代を務めていた板倉伊賀守(勝重)から連絡されてきたことを伝えたうえで、「駿府」(大御所・徳川家康の事)も陣触れを出した事を伝え、信之に対して出陣の用意と、早々の江戸への参陣を命じるものであった。そのうえで追伸には、「貴方は病気で来ることができなければ、息河内守(信吉)に軍勢を付けて、早く当地(江戸)まで来させなさい」と述べられている。
これが信之にとって、大坂の陣勃発の第一報であったと考えられる。大坂における片桐且元と大野治長の争いというのは、ともに羽柴秀頼の宿老であった両者が、江戸幕府への対応方針をめぐって政治対立し、片桐が大坂城から追放されるという事件を指している。これは単なる路線対立に留まらず、片桐が羽柴家から幕府への取次を務めていたから、それを追放するということは、羽柴家が幕府に対して、国交断絶および宣戦布告したことを意味した。そのため幕府は、たっだちに羽柴家の追討を図り、諸大名に出陣を命じたのである。こうして幕府が羽柴家を追討する大坂の陣が展開されていくことになった。
この大坂の陣においては、紀伊九度山に隠棲していた弟信繁が大坂城に入り、大坂方の大将の一人として徳川方に対抗していくことになるが、信之はこのことを全く予想していなかったと推測され、後に信之の立場にも少なからず影響を与えることになる。この時信之は49歳になっていた。
 信之の代わりに信吉を出陣させる
江戸幕府からの参陣命令が出されたとき、信之は病気療養のためか、本拠の沼田城に在所していた。幕府も信之の病気のことを承知していたようで、信之の出陣が無理なら、嫡子信吉に軍勢を率いて参陣させるよう命じている。ちなみに、このことによって信吉が、幕府から信之の嫡子として承認されていたことが伺われる。
幕府からの参陣命令を受けた信之は、10月9日に吾妻地域支配を担当する宿老の出浦昌相に書状を送っている。
大坂で争いがあって、河内守(信吉)に軍勢を付けて派遣せよとの命令があった。私は病気だが、とりあえず江戸まで2,3日中に行く。あなたには吾妻の留守を任せるので、年来の奉公を遂げるのはこの時である。万事精を入れて言いつけよ。吾妻衆も早く準備をして出立させよ。急ぐので少しも油断があってはならない。
追伸。急いでいるので自筆で送った。私は馬に事欠いているので、どうしても馬三匹をそちらで調達して江戸までひかせてきてほしい。その馬は悪いものであっても「かんよくこたへ」さえすればよいので、必ずあなたが心得て三匹をほしい。代わりのことはどんなことでも言いつける。いつかあなたが貰った黒の馬もひかせて寄越して欲しい。必ず馬三匹を頼む。早くウマがあれば江戸へひかせて寄越して欲しい。こちら(沼田城)へは無用である。馬がいなくて困っている。その他は何事も困っていない。軍勢も思ったより多いので安心である。(天桂院殿御事績稿)

このように、自身に代わって信吉が軍勢を率いて出陣することになった旨を伝えたうえで、出浦には吾妻の留守を務めること、吾妻地域の家臣たちに対する出陣の差配を命じるとともに、馬の手配を依頼している。
 信繁九度山脱出する
ちょうど同日の10月9日、九度山にいた信繁は、嫡子大助とともに、九度山の在所を発って大坂城に入っている。その際に、上田から随従してきた家臣のうち、窪田角左衛門・青木半左衛門・鳥羽木工は国許の上田領に帰還し、青柳千弥・三井豊前・高梨采女のみが大坂に随行したという。
信繁の嫡男大助は、慶長7年生まれであるから、このとき13歳であった。信繁は43歳であったと推測される。なお信繁に随従した家臣のうち、高梨采女は大助の家老であったと記されている。采女の父内記は、信繁の乳母夫であったと推定されており、その娘は信繁の側室となっていた。そのようなことから考えると、采女は大助の乳母夫にして傅役であったと考えられるであろう。




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