徳川政権との関係 ~徳川氏への取次~ |
慶長5年頃からは、家康に対しては本多正信・正純父子を取次にしていたとみられる。しかし、信之と家康との書状のやり取りに関わり史料として最も古いとみられるのは、11月6日付、11月23日付、12月30日付で、家康から信域に出した、音信・歳暮祝儀への礼状と見られ、ともに副状を宿老阿部伊予守(正勝)が出している。家康の署判は花押が据えられたものとなっていること、阿部正勝は慶長5年(1600)4月に死去していることから、これらは関ケ原合戦以前に出されたものである。 同じような内容のものであるから、すでに合戦以前から、信之はこのような家康への音信を2年以上にわたって行っていたことになる。もっとも信之は家康の養女婿であったから、それは当然のことととらえられるであろう。それが関ケ原合戦の時からは、本多正信が取次としてみえるようになっている。同時に歳暮の進物は、正信の嫡子正純に取次を頼んでいた。しかし正信はその後、秀忠の将軍就任にともなって、秀忠付きの宿老に転任する。駿府時代の家康との間では、具体的な状況は確認されていない。それまで本多正純が務めていたとすれば、正純は駿府付き宿老として残っていたので、そのまま継続したかもしれない。
信幸と秀忠との書状の遣り取りは豊臣時代からみられており、慶長4年閏3月に秀忠から送られた書状から、その時は秀忠の宿老酒井右兵衛大夫忠世を取次にしている。翌5年6月の際には、同じく宿老の大久保治部少輔忠隣を取次にしている。そして関ケ原合戦直前の8月のものでは、大久保相模守(忠隣)と本多正信が取次に当たっている。ただ本多正信は本来は家康への取次であり、この時は秀忠に従軍していた関係で、取次を務めたものだろう。 関ケ原合戦後において秀忠から信之に出された書状で、花押が据えられているものが6通ある。それらは花押が据えられているために、将軍就任以前かその前後の頃と推測されるが、そこで副状を出しているものとして、酒井忠世が2通、本多正信が1通、大久保忠隣が2通、忠隣の嫡子大久保忠常が1通となっている。このうち酒井忠世は慶長12年に雅楽頭に任官するため、その関係文書は同11年以前のものであり、大久保忠常は同16年死去するから、その関係文書は同15年までのものとなり、これらが将軍任官前後の時期のものである事が確認される。 このうち大久保忠常からは、年代が特定できないが、3月13日付で信之に送ってきた書状が残されている。それは「ご病気いかがですか。御心もとないことと思います養生するのが大事です。何かと忙しく折々に書状も送らず、本意の外です。私は病気中でしたが少し良くなりました。ご安心ください」というもので、この時、信之も忠常もともに病気で、互いにそれをいたわりあっていた様子がうかがえる。
これらのことから、秀忠への取次は、豊臣時代から、酒井忠次・大久保忠隣によって担われ、将軍就任後に、それまで家康の取次でった本多正信が加わるものとなっていることがわかる。そして酒井・大久保については、それぞれの嫡子忠之・忠常も加わるようになっている。 しかし、大久保氏は慶長16年に忠常が死去、同18年に忠隣が失脚しており、本多正信も元和2年に隠居・死去するため、以後の取次は酒井忠世によって担われていくことになる。 ちなみに信之は長男信吉の妻に、その酒井忠世の娘を迎えることになるが、これは徳川政権=江戸幕府への取次を、まさにその忠世が務めていたからであった。当時は、酒井忠世が土井利勝と並んで秀忠政権の最重鎮となっており、信之としても彼と密接な結びつきを画策したかったのだろう。 |