徳川政権との関係
 ~難しくなった赦免~
 


 少なかった家康との書状の交わり
信之は井伊直政を始め、徳川諸将との文書の交換は多く行っていたが、家康本人との関わりを窺わせる書状は少なく、赦免嘆願関係の物以外には二通ほどしかなかった。
一通は、慶長7年か9年かと思われるもので、8月21日付で在国の家老木村五兵衛に宛てたものである。道中問題なく到着し、すぐに家康にお目見えしたこと、こちらでの作事(建築)がとり込んでいることを述べている。道中問題なかった、との言い回しから、沼田から近い江戸ではなく、伏見の可能性が高い。そうであれば、信之は伏見に出仕して、家康に拝謁したことになる。また、建築とは伏見城か、城下における自分の屋敷の可能性がある。関ケ原合戦の際、伏見城も攻防戦が行われていたため、屋敷は焼失していたと思われた。この頃の「天下の政庁」は江戸ではなく、未だ伏見城であり、信之の屋敷もその城下に置かれていたことがわかっているから、その再建を指している可能性が高い。

 本多正信・正純父子を取次に
もう一通は、家康を「内府様(内大臣)」と呼んでいること、年末に家康が在京していることから、慶長7年のものと推察される。12月8日付で徳川家康旗本で武田旧臣の城織部佐昌茂に送った書状である。内容はおおよそ「先日江戸で忙しかったため、すぐに話して(少ししか話が易なかったので)名残惜しい。内府様(家康)に御綾一重を贈った。毎年本多上総介(正純)を通じて送っている。もし、正純に差し障りのことがあれば、御才覚いただき、どのようにも治められるように肝煎りを頼む。東国筋の御用のことがあれば、言いつけて欲しい。どのようなことでも来春上洛するので、会って話をしたい」というものである。
信之はこれ以前に江戸に出府しており、このときは沼田城に在ったとみられる。信之は、毎年歳暮に、本多正純(正信の嫡子)を通じて進物を贈っていたことが知られるが、このときは正純を通じての進上が難しいと思われたらしく、城昌茂にその取成しを依頼している。家康は伏見城にあり、昌茂もそれに従っていたことが伺われる。ここからも信之にとって、家康への取次は本多正信・正純父子であったことが確認される。(井伊直政は慶長7年に死去していたことも理由の一つかと)また来春に上洛の意向を示しているが、これは家康の将軍任官にともなうものとみられる。
 赦免拒否
こうしてみても、信之はこの時期、家康との関係を親密なものにしていこうと努めていた様子がうかがえる。昌幸赦免の嘆願もそのようななかで行われていたのであり、取次の本多正信・正純父子だけでなく、井伊直政や武田旧臣の城昌茂などが、家康への取次に関わっていたことがわかる。しかし昌幸赦免の話は、この後はみることができなくなる。その要請は家康の耳に入れられていたであろうから、この時は家康から明確に拒否されたものと思われる。
後に昌幸が死去した際、本多正信は信之に、家康・秀忠父子に赦免を取りなす都合をためらっていたことを述べている。信之はその後も赦免の取り成しを依頼していたとみられるが、正信としてはなかなか切り出せない状況にあったことが伺われる。昌幸は「公儀御憚りの仁」と、家康にとって差し障りのある人物、と位置付けられていたらしく、当初は赦免の雰囲気もあったが、結局は最後までその評価は変らなかったようだ。家康としても、羽柴家がいまだ存在しているなかであったから、明確に敵対した昌幸を簡単に赦免するわけにはいかなかったのかもしれない。




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