徳川政権との関係
 ~井伊直政を取次に~
 


 井伊直政からの書状
慶長6年(1601)に入ってから、信之の動向として確認される最初は、7月6日付で家康の宿老井伊直政から書状を送られていることである。前年末に上田領を併合してから、末に半年以上が経過しているが、その間の動向は不明である。かといってすぐに領国支配に当たっていた形跡もない。むしろ領国支配の再編を進めるのは、この直後の7月中旬からであった。ではこの間、信之は何をしていたのだろうか。領国支配を行っていないのであれば、伏見城もしくは江戸城への出仕が考えられる。
ただ井伊直政から書状を送られた時点では、信之は江戸に滞在していたことがわかる。やがて信之も、その他の大名と同じように、江戸城下に屋敷を与えられることになるが、その時期は明らかではない。ただ家康の養女婿という立場、豊臣時代から親密な関係にあったことからすると、比較的早い時期に与えられたのではなかろうか。その書状は次のような内容である。
昨夜、雲州(本多忠朝)のところにお出でになったとのことを聞いたが、手が震えて散々の有様だったので、行くことができなかった。理由は嘘ではない。すぐに上洛するつもりなので、ちょっと内々に申し入れて、何としてでも首尾が違わないように話をするつもりだ。以前のこともそのように話さなくても、思われていると感じているので、私も神に誓って無沙汰には思っていない。きっとあなたのことは勿論のこととされていると思う。何度も思われていることは深く感じている。何としてでも上洛して家康にちょっと申し入れて、ひととおりの事を話すつもりである。其の内のことについても、右の様に思っているので、同じことであるので、お心得ておいてください」
 井伊直政を取次に
上記の書状は具体的な事が示されていないため、内容を把握することが難しいが、信之が井伊直政に何らかの依頼をしていたことがわかる。しかし直政はなかなか実現できないでいた。手の震えによる体調不良のせいであった。ここで直政は信之に、上洛して家康に申し入れることを改めて約束している。家康は、信之のことを気にかけているので、申し入れをすれば、首尾よい結果が得られるだろうとの観測を伝えている。またこのなかで、信之が義弟の本多忠朝(忠勝の次男)のもとを訪れたことが見えており、当然ながら親しい関係にあったことがわかる。忠朝はこの時、上総大多喜城主で、天正10年(1582)生まれの20歳であった。
信之が家康に何らかのことを嘆願しようとしていたことがわかるが、それを井伊直政に依頼していることからすると、この時期、信之は直政を取次にしていた可能性があろう。但し前年(慶長5年)に家康から送られた書状は、いずれも本多正信を通じてであったから、本来の取次は本多正信であったと考えられる。この後においても、基本的には本多正信によって務められている。そうするとこの時は、正信が家康の側にあって江戸にいないため、直政に依頼したのであろうか。
 赦免を嘆願か
信之は、直政を通じて何を家康に歎願しようとしていたのだろうか。前年に信之は上洛して、家康に父昌幸の赦免を嘆願していたことからすると、ここでの嘆願も、昌幸の赦免に関することであったと思われる。直政は、家康は信之に好感を持っているので、申し入れは聞き入れられるだろうと観測しているから、信之はかなり期待していたに違いない。さらに昌幸自身も、赦免されると確信していたようである。
すなわち2年後に当たる慶長8年3月に、九度山の昌幸は小県郡信綱寺からの音信に礼を述べているなかで、本多正信に取り成しを依頼していることを伝え、さらに「下山」したら面会する意向を伝えているのである。また年代は不明だが、同じころのものとみられるものに、快年の挨拶を述べる中で、年が明けたので「下山」も近づいた、と述べているものもある。この慶長8年には、昌幸の赦免がかなり現実的にとらえられていたことがわかる。




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