徳川政権との関係 ~井伊直政を取次に~ |
ただ井伊直政から書状を送られた時点では、信之は江戸に滞在していたことがわかる。やがて信之も、その他の大名と同じように、江戸城下に屋敷を与えられることになるが、その時期は明らかではない。ただ家康の養女婿という立場、豊臣時代から親密な関係にあったことからすると、比較的早い時期に与えられたのではなかろうか。その書状は次のような内容である。 「昨夜、雲州(本多忠朝)のところにお出でになったとのことを聞いたが、手が震えて散々の有様だったので、行くことができなかった。理由は嘘ではない。すぐに上洛するつもりなので、ちょっと内々に申し入れて、何としてでも首尾が違わないように話をするつもりだ。以前のこともそのように話さなくても、思われていると感じているので、私も神に誓って無沙汰には思っていない。きっとあなたのことは勿論のこととされていると思う。何度も思われていることは深く感じている。何としてでも上洛して家康にちょっと申し入れて、ひととおりの事を話すつもりである。其の内のことについても、右の様に思っているので、同じことであるので、お心得ておいてください」
信之が家康に何らかのことを嘆願しようとしていたことがわかるが、それを井伊直政に依頼していることからすると、この時期、信之は直政を取次にしていた可能性があろう。但し前年(慶長5年)に家康から送られた書状は、いずれも本多正信を通じてであったから、本来の取次は本多正信であったと考えられる。この後においても、基本的には本多正信によって務められている。そうするとこの時は、正信が家康の側にあって江戸にいないため、直政に依頼したのであろうか。
すなわち2年後に当たる慶長8年3月に、九度山の昌幸は小県郡信綱寺からの音信に礼を述べているなかで、本多正信に取り成しを依頼していることを伝え、さらに「下山」したら面会する意向を伝えているのである。また年代は不明だが、同じころのものとみられるものに、快年の挨拶を述べる中で、年が明けたので「下山」も近づいた、と述べているものもある。この慶長8年には、昌幸の赦免がかなり現実的にとらえられていたことがわかる。 |