徳川政権との関係
 ~徳川政権の成立~
 


 関ケ原の勝利を受けて
関ケ原合戦の勝利によって、徳川家康の「天下」における覇権は確立した。だが、石田方に味方した陸奥会津上杉景勝や薩摩島津忠恒など、いまだ服属を遂げていない大名が存在していたから、以後においても家康は彼らへの臨戦態勢をとりつつ、上洛・出資を働き掛けていった。また合戦は、家康にしろ三成にしろ、ともに羽柴家当主秀頼への奉公をもとに謀反人を討伐する、という論理で展開された為、家康の立場は、この時点では公的にはあくまでも政権執政というものであった。そのため慶長6年(1601)の正月も大坂城で過ごし、秀頼への年頭挨拶を行っている。
しかし3月になると、家康は再建された伏見城に入城した。家康は、合戦で灰燼に帰していた同城を、合戦後から再建をすすめていたのであった。伏見城は、それ以前から「天下人」の政庁であったから、秀頼の側から離れて、改めて同城に入ることで「天下人」としての家康の立場を明確に示すものとなった。そしてこの後、慶長12年(1607)に駿河駿府城を居城とするまでは、伏見城が「天下の政庁」として機能し続けた。家康はその間、本拠の江戸城と伏見城との間を行き来して、領国の統治と「天下」の統治を行っていた。
続いて5月には、家康は羽柴家の在り方を定め、本拠を大坂城とし、さらに領国とその知行高を規定して、羽柴家の家政と「公儀」財政との切り離しを行った。そして8月には上杉景勝が上洛・出仕し、島津忠恒も同7年8月に上洛の途について、12月に出仕してきた。これによりすべての大名が、家康に服属することになった。
 徳川・豊臣微妙な関係
翌慶長8年2月、家康は征夷大将軍に任官して、新たな武家政権として徳川政権=江戸幕府を発足させる。それはこれら諸大名の完全服属を受けてのことであった。
それまで家康は、大坂城に赴いて秀頼に対して年頭挨拶をしていたが、この年からは行わなくなった。逆に慶長9年以降は、使者によるものであったが、秀頼の方から家康に年頭挨拶をするようになっている。しかし秀頼は、前政権の後継者で、豊臣関白家当主の地位にあり、いずれは関白職に就任すると目され続けた。それは秀頼が「天下人」の有資格者と認識されていたことを意味した。家康は、将軍就任後の慶長8年7月、嫡子秀忠の長女千姫を秀頼に嫁がせるが、それもそのような秀頼の立場を考慮し、両家の親密化を図ってのことである。そして同10年4月、家康は嫡子秀忠に将軍職を継承させ、将軍職は徳川家が世襲することを示した。
しかし、だからと言って徳川家と羽柴家の関係が固定したわけではない。家康は、将軍任官と同時に、内大臣から右大臣に転任するが、後任の内大臣に就任したのは秀頼であった。そしてこの秀忠の将軍就任にともなって、家康は右大臣を辞任したが、その後任に就任したのも秀頼であった。そして秀忠は、将軍就任にともなって、秀頼が右大臣転任にともなって辞任した内大臣に就任している。つまり、官職の序列から言えば、家康、秀頼、秀忠の順であったのである。徳川家と羽柴家の関係が固定するためには、いずれかが服属の礼を取るしかなかった。
 二重公儀時代続く
このように、新たな「天下人」となった徳川家康と、前政権の後継者である羽柴秀頼との関係は、極めて微妙なものであった。将軍就任によって、家康は秀頼に臣下の礼を取る必要はなくなったが、かといって秀頼を服属させたわけでもなかった。諸大名にしても、家康に服属している一方で、秀吉との政治的関係を断絶させるわけにもいかなかった。いわゆる「二重公儀」体制がしばらく続くことになるのである。
信之についても、秀頼に歳暮の進物を贈っており、それへの秀頼からの返書が三通残されている。年代は不明であるが、少なくとも三年にわたって祝儀を贈っていたことがわかる。秀頼に対して歳暮の祝儀を贈るのは、早くても秀頼が羽柴家の家督を継承した後の慶長4年からのことになるから、少なくとも信之は、同6年まではそれまでの豊臣時代と変わらず、羽柴家当主へのあいさつを行っていたことになる。ただこれ以外に、秀頼との関係を示す史料はないので、その後も挨拶を行い続けたかどうかは不明である。ちなみに、秀頼からの返書の副状は、いずれも宿老片桐且元によるものとなっているので、秀頼への取次は、片桐且元であったことが確認される。




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