信之の生い立ち ~関ケ原合戦時~ |
しかし、翌慶長4年正月になると、福島正則ら豊臣家譜代大名の中で家康を政権首班に押し上げようとする勢力が出てきて、家康と利家以下四大老・五奉行との政治対立が生じていく。そして閏3月までの間に、三成らによる家康暗殺謀議、大老前田利家の死去、細川忠興ら七将による三成襲撃、家康と毛利輝元の和睦、奉行石田三成の失脚などの政争が続き、結果として家康が豊臣政権の京都における政庁の伏見城への入城を果たし、政権執政の地位を確立して「天下人」とみなされるようになった。さらに同年中には、他の四大老が領国に帰国し、五大老・五奉行の政治態勢は完全に崩壊した。その上で家康は大坂城西の丸に入って、秀頼との一体的関係を構築して「天下人」として統治に当たっていた。
昌幸はこれを受けて、信之を天明の宿所に呼び寄せ、父子三人だけで対応を協議したが、結果として、信之はそのまま徳川方に味方し、昌幸・信繁は討伐軍から離脱して石田・大谷方に味方することになり、その日の夜に両社は上田城に向けて引き返した。これがいわゆる「犬伏の別れ」であるが、正しくは「天明の別れ」というべきであろう。ちなみに昌幸はその帰路の途中、信之の本拠沼田城に立ち寄ろうとしたところ、信之の正妻小松殿の対応で追い払われたという有名なエピソードがある。だが当時小松殿は大坂で大谷に保護されて不在であり、事実ではない。 信之が昌幸の行動に同調しなかった理由は、妻の小松殿が家康の養女であった為、家康との関係を重視したからと考えられるが、さらには家康が既に「天下人」の地位にあったこと、領国の沼田領が家康の領国に接していたことも考慮されたに違いない。信之は、この後の政治情勢は家康を中心に展開していくのが最良と判断していたものと考えられる。 信之はそのまま進軍を続け、24日に下野小山に陣する家康に参陣し、ここで昌幸に同調しなかったことを賞されている。27日には、家康は昌幸に対しては討伐することを決めたらしく、信之はその領国を与えられることを約束された。
これを受けて信之は、3日に秀忠の了解を得て昌幸に降伏を勧告し、昌幸はそれを受け容れる態度を示したが、翌4日に事実上それを拒否した。そのため秀忠は、昌幸討伐に当たることにし、5日に上田城に向けて進軍した。それを受けて昌幸方では、かつての本拠であった砥石城に入れていた軍勢を上田城に退かせた。これを受けて信之が同城を守備することになった。ちなみにこのことが、翌日の徳川方による上田城攻撃に信之が参加することを回避させることになるのである。信之としても、自身による上田城への攻撃は避けられないものと考えていたであろうが、砥石城の守備につくことで、図らずもそれが避けられたのである。 徳川軍による上田城攻撃は、6日に行われるが、これは攻撃命令が出される前に、なし崩し的に開始されたものであった。そのため秀忠は攻撃に参加している軍勢に対して交代を命じるのである。これがいわゆる第二次上田合戦であった。秀忠は陣容を立て直して、再度の攻撃にあたるつもりであったろうが、8日に家康から、昌幸討伐を後回しにして、すぐに西上するようにとの指令が届けられた。これを受けて秀忠は昌幸討伐を延期し、上田城への包囲態勢を整えたうえで11日に小諸城を出立して西上していくのである。そして信之は、本拠の沼田城に帰城して、上田領と、上杉方からの攻撃の懸念があった越後坂戸領の備えに当たった。 |