信之の生い立ち
 ~関ケ原合戦時~
 


 秀吉死後の政局
慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉が死去すると、政権運営のありかたを巡って内部抗争が展開されていった。豊臣家の家督は、秀吉嫡子の秀頼に継承されたものの、幼少の為「天下人」の地位は継承することができなかった。そのため秀吉は死の直前に、秀頼が「天下人」の地位を継承できるようになるまでの措置として、いわゆる五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)という有力大名と、五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)という豊臣家の有力奉行衆による、政治体制を構築していた。
しかし、翌慶長4年正月になると、福島正則ら豊臣家譜代大名の中で家康を政権首班に押し上げようとする勢力が出てきて、家康と利家以下四大老・五奉行との政治対立が生じていく。そして閏3月までの間に、三成らによる家康暗殺謀議、大老前田利家の死去、細川忠興ら七将による三成襲撃、家康と毛利輝元の和睦、奉行石田三成の失脚などの政争が続き、結果として家康が豊臣政権の京都における政庁の伏見城への入城を果たし、政権執政の地位を確立して「天下人」とみなされるようになった。さらに同年中には、他の四大老が領国に帰国し、五大老・五奉行の政治態勢は完全に崩壊した。その上で家康は大坂城西の丸に入って、秀頼との一体的関係を構築して「天下人」として統治に当たっていた。
 上杉討伐に従軍する
慶長5年(1600)6月、家康は上杉景勝謀反としてその討伐を決定、諸大名に参陣を指令した。昌幸・信之もそれを受けて領国に帰国し、出陣の準備を整えて、7月19日頃にそれぞれ本拠を出陣した。そして20日頃に上野板鼻(群馬県安中市)で合流し、参陣先の下野宇都宮に向けて進軍、21日に下野佐野に到着し、信之は犬伏に、昌幸・信繁は天明に宿所をとった。その間の12日に、石田三成・大谷吉継が家康打倒の為に蜂起し、17日には毛利・宇喜多の二大老と前田玄以・増田・長束の三奉行がそれに味方して、17日付で家康討伐と秀頼への忠誠を求める書状を諸大名に送った。そうして昌幸のもとにも、21日に一矢だからそれらが送られてきた。
昌幸はこれを受けて、信之を天明の宿所に呼び寄せ、父子三人だけで対応を協議したが、結果として、信之はそのまま徳川方に味方し、昌幸・信繁は討伐軍から離脱して石田・大谷方に味方することになり、その日の夜に両社は上田城に向けて引き返した。これがいわゆる「犬伏の別れ」であるが、正しくは「天明の別れ」というべきであろう。ちなみに昌幸はその帰路の途中、信之の本拠沼田城に立ち寄ろうとしたところ、信之の正妻小松殿の対応で追い払われたという有名なエピソードがある。だが当時小松殿は大坂で大谷に保護されて不在であり、事実ではない。
信之が昌幸の行動に同調しなかった理由は、妻の小松殿が家康の養女であった為、家康との関係を重視したからと考えられるが、さらには家康が既に「天下人」の地位にあったこと、領国の沼田領が家康の領国に接していたことも考慮されたに違いない。信之は、この後の政治情勢は家康を中心に展開していくのが最良と判断していたものと考えられる。
信之はそのまま進軍を続け、24日に下野小山に陣する家康に参陣し、ここで昌幸に同調しなかったことを賞されている。27日には、家康は昌幸に対しては討伐することを決めたらしく、信之はその領国を与えられることを約束された。
 上田城攻防戦
家康は、石田・大谷の謀反に、二大老・三奉行が味方したことを受けて、上杉討伐を延期してそれへの攻撃を優先させて、諸大名を西上させるが、家康嫡子の秀忠を大将とする徳川主力軍と信濃大名衆については、昌幸討伐に当たらせることとした。信之もその中に編成され、7月下旬には本拠の沼田城に帰城し、そこから上田領に向けて進軍していったとみられる。秀忠は8月24日に宇都宮を出陣して、上田城に向かい、9月1日に信濃に入って、翌日小諸城に入った。
これを受けて信之は、3日に秀忠の了解を得て昌幸に降伏を勧告し、昌幸はそれを受け容れる態度を示したが、翌4日に事実上それを拒否した。そのため秀忠は、昌幸討伐に当たることにし、5日に上田城に向けて進軍した。それを受けて昌幸方では、かつての本拠であった砥石城に入れていた軍勢を上田城に退かせた。これを受けて信之が同城を守備することになった。ちなみにこのことが、翌日の徳川方による上田城攻撃に信之が参加することを回避させることになるのである。信之としても、自身による上田城への攻撃は避けられないものと考えていたであろうが、砥石城の守備につくことで、図らずもそれが避けられたのである。
徳川軍による上田城攻撃は、6日に行われるが、これは攻撃命令が出される前に、なし崩し的に開始されたものであった。そのため秀忠は攻撃に参加している軍勢に対して交代を命じるのである。これがいわゆる第二次上田合戦であった。秀忠は陣容を立て直して、再度の攻撃にあたるつもりであったろうが、8日に家康から、昌幸討伐を後回しにして、すぐに西上するようにとの指令が届けられた。これを受けて秀忠は昌幸討伐を延期し、上田城への包囲態勢を整えたうえで11日に小諸城を出立して西上していくのである。そして信之は、本拠の沼田城に帰城して、上田領と、上杉方からの攻撃の懸念があった越後坂戸領の備えに当たった。




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