信之の生い立ち
 ~子供たち~
 


 二女・三男に恵まれる
信之の子女には二女・三男があったが、それらはいずれもこの豊臣時代に誕生している。だがそれら子供たちについても、生年ははっきりしていないのだが、長男信吉・次男信政については、死去時の年齢から、信吉は文禄2年(1593)生まれ、信政は慶長2年(1597)生まれが妥当のようである。それ以外については「沼田日記」に見える記載が注目される。
それらをもとにすると、天正19年9月に長女まん、文禄2年8月に次女まさ、同年に長男信吉、慶長2年11月には次男信政、同4年7月に三男信重が誕生したようである。それらの母については、長男信吉以外は、すべて小松殿であったとされており、長男信吉のみ母は別人で、もうひとりの妻である清音院殿であった可能性が高い。
 五人の子たち
長男信吉は幼名を仙千代、あるいは孫六郎と伝えられ、慶長16年11月に元服して、蔵人信吉を名乗ったという。しかしそれでは元服の年齢は19歳になってしまう。一般的な元服年齢である15歳で見ると、それは慶長12年であるから、実際には同年に行われたのではないか。その時の孫六郎を称し、同16年というのは蔵人への改称を指しているのかもしれない。それからさらに大坂の陣までに、河内守に改称している。
次男信政は、幼名を百介といい、慶長5年の関ケ原合戦時に、4歳で徳川家康に人質として送られたとされる。そして大坂の陣以前に元服して、大内記信政を名乗った。15歳の時とすれば、同16年のことになる。そうすると「沼田日記」の信吉元服に関する記載は、この信政との混同の可能性も考えられる。
三男信重は、幼名を越後といい、慶長18年11月に15歳で元服し、隼人正信重を名乗ったという。ただし「越後守信頼」と署名した文書があるので、元服後の通称が越後守、初名が信頼で、後に隼人正信重に改名したのだろう。
長女まんは、慶長11年8月に、徳川家の大身旗本で武蔵岩付城主であった高力摂津守忠房に嫁したという。次女まさは、同12年から16年までの5月に、徳川家旗本であった佐久間備前守安次の嫡子民部少輔勝次に嫁したという。だがこの勝次は、元和2年(1616)3月に28歳で死去してしまい、そのためまさは以後は実家に戻り、そこえ余生を送ることになる。




TOPページへ BACKします