信之の生い立ち ~豊臣時代の信之~ |
小田原合戦は天正18年7月に終結するが、信之はそのまま在陣し続け、8月には秀吉の陸奥会津行きに従軍している。そして帰陣後の8月下旬に、改めて領国となった沼田領に入部して、代替わり検地、家臣や寺社への所領配分など、領国化を進める政策を年内いっぱい行っている。そしてこの後において、信之は沼田領の支配拠点である沼田城を本拠とするのである。この時点で、昌幸の上田領とは、領国も家臣も截然と区分されたのである。宿老矢沢頼綱・頼幸父子、出浦昌相、大熊靫負・五郎左衛門父子などは、信之付とされて、上田領から移住し、上田領での所領を昌幸に返上したうえで、相当分を沼田領で与えられる、という処置がとられている。
そしてこのことが、後の関ケ原合戦の際に、昌幸・信繁が石田三成方に与し、信之が徳川家康方に与して、父子兄弟が異なる政治的立場を取ることを可能にした、根底的な背景であった。信之が単なる昌幸の嫡子に過ぎなかったら、そのように政治的立場を異にしようとすれば、家臣を分裂させ内紛を生じさせたことは確実だろう。しかし昌幸と信之とでは、領国も家臣も截然と区分されていたため、そうした内紛を生じさせることが見事に回避されたのである。そして信之は、家康から上田領を昌幸の旧領ということでそのまま与えられ、真田家としては領国の維持に成功するのである。信之が事実上独立した豊臣大名となったのは、それまでの沼田領をめぐる動向の帰結に過ぎなかったが、そのことが結果として、真田家の領国の維持を可能にしたのであった。
また文禄3年11月2日には、秀吉の推挙によって、従五位下の位階と伊豆守の官職を与えられている。ちなみに同じ日に弟信繁も従五位下・左衛門佐の位階と官職を与えられている。そしてこの叙任にあたっては、姓は豊臣姓とされている。これは豊臣時代において、武家の叙任はすべて秀吉の執奏によるものであり、その際に豊臣姓で行われたことによる。真田家は滋野姓であったが、この時期ばかりは豊臣姓とされたのである。 従五位下の位階とそれに相当する官職を有しているものは「諸大夫」と言われ、豊臣時代においては、秀吉直臣の指標になっていた。すでに父昌幸は同年4月に諸大夫とされており、この時の叙任によって信之・信繁も同様に諸大夫とされたのである。このことも、昌幸・信之・信繁が、それぞれ別個に冷え葦の直臣として存在していたことの証左となる。ちなみに諸大夫の地位は、関ケ原合戦後も継続されるが、姓は豊臣姓から、本姓の滋野姓に戻されることになる。 |