信之の生い立ち
 ~豊臣時代の信之~
 


 沼田城主として
豊臣政権のもとで、沼田領の知行高は2万7千石とされた。実際の支配においては、それまでと同様に貫高が用いられたが、政権による知行高表示は石高によって行われた。以後において信之は、この知行高を元に軍役や普請役などにおいて、動員すべき人数が規定されて、政権に対する公役負担を務めていく。また領国の範囲については、それまでの沼田領の範囲に一致していたと考えられ、利根郡全域、吾妻郡のほとんど、利根郡の隣接する勢多郡の一部であったと考えられる。これはその後の明暦3年(1657)に成立した沼田藩真田家の領国範囲にそのまま引き継がれていったと考えられる。(しかし、元和8年(1622)までに知行高は3万石に増加されている)
小田原合戦は天正18年7月に終結するが、信之はそのまま在陣し続け、8月には秀吉の陸奥会津行きに従軍している。そして帰陣後の8月下旬に、改めて領国となった沼田領に入部して、代替わり検地、家臣や寺社への所領配分など、領国化を進める政策を年内いっぱい行っている。そしてこの後において、信之は沼田領の支配拠点である沼田城を本拠とするのである。この時点で、昌幸の上田領とは、領国も家臣も截然と区分されたのである。宿老矢沢頼綱・頼幸父子、出浦昌相、大熊靫負・五郎左衛門父子などは、信之付とされて、上田領から移住し、上田領での所領を昌幸に返上したうえで、相当分を沼田領で与えられる、という処置がとられている。
 父昌幸とは別個の大名家に
信之は、昌幸の嫡子ではあったが、その一方で、沼田領2万7千石を領した。事実上は独立した豊臣大名という立場にあった。ちなみに昌幸の上田領の知行高は3万8千石、弟信繁は羽柴家旗本に取り立てられ、上田領の中から割かれたとみられる1万9千石の所領を有していた。豊臣時代における真田一族の知行高は、合計で8万4千石となっていた。そして豊臣政権への交易負担においては、真田一族は基本的には一緒に務めていたから、父子兄弟の一体性は維持されていた。しかし公役負担はそれぞれに課され、また政権本拠に置かれた屋敷も別個に存在したのである。こうしたところに、一族としては一体的な存在でありながら、大名としては事実上別個の存在であった、という状況を見ることができる。
そしてこのことが、後の関ケ原合戦の際に、昌幸・信繁が石田三成方に与し、信之が徳川家康方に与して、父子兄弟が異なる政治的立場を取ることを可能にした、根底的な背景であった。信之が単なる昌幸の嫡子に過ぎなかったら、そのように政治的立場を異にしようとすれば、家臣を分裂させ内紛を生じさせたことは確実だろう。しかし昌幸と信之とでは、領国も家臣も截然と区分されていたため、そうした内紛を生じさせることが見事に回避されたのである。そして信之は、家康から上田領を昌幸の旧領ということでそのまま与えられ、真田家としては領国の維持に成功するのである。信之が事実上独立した豊臣大名となったのは、それまでの沼田領をめぐる動向の帰結に過ぎなかったが、そのことが結果として、真田家の領国の維持を可能にしたのであった。
 位階と官職を与えられる
豊臣政権のもとでは、政権への公役負担と、他方において領国支配を進める、という在り方がとられた。公役負担では、天正19年に肥前名護屋城在陣を命じられ、文禄元年(1592)から同2年にかけて在陣し、帰陣後は伏見城の普請を命じられ、同4年から秀吉が死去する慶長3年(1598)まで、毎年普請役を負担している。その合間を縫うようにして、領国に帰国して、領国支配の整備を進める、といった状況であった。そうした中で文禄3年から慶長2年にかけては、領国の疲弊が進んでいたらしく、信之は復興対策にあたっていたようであったが、公役負担のために在京しなければならなかったり、そのための費用捻出によって、復興がなかなか軌道に乗っていかない状況が見受けられる。この課題は、関ケ原合戦後にそのまま引き継がれていったようである。
また文禄3年11月2日には、秀吉の推挙によって、従五位下の位階と伊豆守の官職を与えられている。ちなみに同じ日に弟信繁も従五位下・左衛門佐の位階と官職を与えられている。そしてこの叙任にあたっては、姓は豊臣姓とされている。これは豊臣時代において、武家の叙任はすべて秀吉の執奏によるものであり、その際に豊臣姓で行われたことによる。真田家は滋野姓であったが、この時期ばかりは豊臣姓とされたのである。
従五位下の位階とそれに相当する官職を有しているものは「諸大夫」と言われ、豊臣時代においては、秀吉直臣の指標になっていた。すでに父昌幸は同年4月に諸大夫とされており、この時の叙任によって信之・信繁も同様に諸大夫とされたのである。このことも、昌幸・信之・信繁が、それぞれ別個に冷え葦の直臣として存在していたことの証左となる。ちなみに諸大夫の地位は、関ケ原合戦後も継続されるが、姓は豊臣姓から、本姓の滋野姓に戻されることになる。




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