信之の生い立ち ~沼田支配~ |
具体的には、例えば「滋野世記」「御家事留書」などでは、同年7月に越後上杉景勝が信濃川中島四郡を制圧した際、信之は手勢2~3百人を率いて、千曲川を超えて川中島のうちの御幣川丹波島あたりに進軍して、上杉方の兵を追い散らした、というものである。信之の進軍した先は、敵方の拠点になっていた海津城より北西にあたるので、昌幸からそれはいかがなものかと諫められたが、信之は聞き入れずに進軍したことが見えている。 そしてその後においても、信之は常に先陣を務め、昌幸よりも一里あるいは半里先を進軍した、とある。さらに「若年よりその勇謀が秀でていたことは、言語の及ぶところではなかった」とまで評されている。これらがどこまで事実か不明であるが、信之が武勇に秀でていた人物と捉えられていたことがわかる。 なお「加沢記」では、その直前にあたる天正10年夏に、上野沼田領のうち沼田城の城代に宿老矢沢頼綱、岩櫃城の城代に信之が据えられたように記しているが、誤りである。この時期、沼田領は丸山綱茂、岩櫃城は河原綱家によって管轄されているからである。矢沢頼綱が沼田城代に就任するのは、翌天正11年6月の事であるし、信之が岩櫃城代になることはなかった。但し同16年4月からは、信之は本拠の上田城にありつつも、沼田領一円の支配を管轄することになる。
但しこの時期には、沼田城代には宿老矢沢頼綱があり、岩櫃城代としても宿老河原綱家らがあったから、信之が具体的な領域支配に携わったわけではなかった。実際に信之が沼田領支配を管轄するようになるのは、同16年4月からのことであった。それに伴って、矢沢頼綱は沼田城代を解任され、上田城の昌幸のもとに帰還している。そしてそれ以後において、同領支配においては昌幸の関与はほとんど見られなくなり、信之はほぼ一円的に支配を管轄したものと思われる。 この時期に信之が沼田領支配を管轄するようになったのは、前年における昌幸の羽柴秀吉への従属確定、秀吉の指示による徳川家康への与力としての配属、を受けてのことと考えられる。かつて天正10年10月、「天正壬午の乱」を終結させた際、徳川氏と北条氏は和睦・同盟し、沼田領を徳川方から北条方へ割譲するという協定が結ばれていた。その時、昌幸は徳川氏に従属していたが、それを回避するために、同13年に徳川氏から離反し、上杉氏に従属し、次いで秀吉への従属を図った、という経緯があった。昌幸が秀吉に従属するにあたって、秀吉とすでに秀吉への従属を済ましていた家康との間では、昌幸を家康の与力として配属することが決められており、そのため昌幸は、この沼田領の帰属を巡る「沼田領問題」の解決を求めていたと考えられる。
しかし、その直後の天正16年10月から、北条氏が秀吉に従属することになり、それに伴う条件交渉のなかで、「沼田領問題」が取り上げられることになった。結果として秀吉は、翌天正17年2月頃に、沼田領を基本的には北条領と決めて、7月に真田方から北条方に三分の二を割譲させるのである。なお、信之の小松殿との婚姻が天正16年12月の婚約、同17年9月の入輿とすれば、それはこの秀吉による裁定と並行して進められていたこととなる。そうであるならば、その婚姻は、沼田領の三分の二を北条氏に割譲することの代替の一つとして、家康と真田家との関係維持のためのものであったと考えることもできるかもしれない。 ところが、沼田領の三分の二が北条氏に割譲されてから3か月後の天正17年10月末に、北条方の沼田城代猪俣那憲が真田方に留保されていた利根郡名胡桃城を奪取するという事件が生じる。当時、昌幸は在京しており、上田城にあった信之がこれに対処したが、寄親の家康に連絡するとともに、その指示を経て秀吉に報告している。同時に、現地に軍勢を派遣したようである。秀吉は北条方の行為を裁定違反ととらえて、直ちに北条氏討伐を発令し、秀吉が北条氏を攻撃する小田原合戦へと発展していく。 秀吉による北条領国への侵攻は、翌天正18年3月から開始されるが、昌幸・信之は前田利家を主将とする東山道軍3万5千の軍勢に配属され、上野から武蔵北部に侵攻した。信之は真田軍の全先陣して活動し、上野松井田城攻めや武蔵忍城攻めなどで戦功を上げていく。またこの軍事行動は、昌幸・信之にとって、秀吉への従属後において、初めてその命令を受けて行ったものであった。合戦の結果、北条氏とそれに従属していた国衆の領国はすべて没収され、沼田領についてはその全域が、秀吉から改めて信之に与えられた。しかも家康の与力という立場を外されて、秀吉に直属する「小名」となったのである。 |