環伊勢海政権の時代
1.分権から集権
 ~集権化の契機~
 


 信長による分権化から集権化への大転換
こうした信長による戦争史の革命的展開によって、分権化から集権化への大転換の仕組みが見えてくる。
戦国大名における両国の拡大は、どこまでも可能なわけではない。隣国の大名と接することになるからである。それが戦国末期のブロック大名の時代であった。南から島津氏・大友氏・毛利氏・長宗我部氏・今川氏・北条氏・武田氏・上杉氏・伊達氏などがその代表的存在である。
数か国規模の領国を誇るこれら大名たちは、大規模戦争によって合従連衡を繰り返すとともに、領国支配の正統性を確保するために足利将軍家に接近して良好な関係を築こうとした。まさに分権国家時代の全盛期を迎えたのだった。彼らは、いずれも下克上の時代にふさわしい新たな権威秩序を構築するようなことはしなかった。成りあがりの大名ほど、守護職など旧来の権威にすり寄り執着するからである。
この点で信長も尾張統一から美濃制覇までは、他の戦国大名とさほど変わらなかった。管領家であり守護家でもあった斯波氏を利用したり、将軍足利義輝と謁見している。しかし上洛し室町幕府を復興してのち、足利義昭との蜜月時代から冷戦時代へと大きな変化を経験する。
 三好政権と織田政権の違い
将軍をコントロールする実力者としては、戦国時代にも細川政元や三好長慶などがいた。しかし彼らは、将軍と対立し時には追放することはあっても、決して自ら将軍になろうとしたり、ましてやそれを凌駕する権威を構築しようとしたりはしなかった。つまり将軍-管領-守護といった
室町秩序までを破壊しようとしたのではない。あくまでも、それを利用しようとしたのである。
例えば、近年飛躍的に実態解明が進展した三好政権であるが、それをいわゆる「プレ統一政権」と評価するのは違和感が生じる。何故なら、長慶は将軍足利義輝を追放しながらも結局は和解して帰洛を認め、将軍を補佐していたからである。
三好政権には、室町時代権威の克服という点が希薄だったのみならず、なによりも織田政権のような城割や指出検地等による兵農分離指向がなかったのが決定的であった。ここに三好・織田両政権の質的違いが、明瞭になるのである。
岐阜時代の信長も、元亀4年(1573)7月に義昭を追放したが、彼の子息を幼君として支える姿勢を広く示していた。したがってこの段階においては、室町時代の伝統的秩序を否定していなかったとみてよい。
 「安土幕府」の将軍信長
しかし天正3年11月に信長が右近衛大将に任官してからは、事実上の将軍として事故を位置付けようとする。いわゆる「安土幕府」の草創ではないか。政治スタンス的には、ここっで大きな画期を迎えるのであるが、その背景として集権化の問題がある。
既にこの段階では、野戦築城による付城戦が全盛となったことを指摘している。これは、戦争において鉄砲の大量使用が可能になったという基礎条件があった。信長は、それまでに一族・重臣を派遣して環伊勢湾諸国の有力都市を掌握したが、今井宗久をはじめとする堺商人と友好関係を築くなど、上方市場を押さえつつあった。特に天正3年5月の長篠の戦いの勝利の後は、新兵器である鉄砲の効果的使用が、短期間での全国支配を可能にすることを自覚するに至った。
室町幕府-守護体制という伝統的な権威支配ではなく、大量殺戮兵器としての鉄砲がもたらした、新たな破壊的軍事力に基づく全国支配の潜在的可能性が浮上したのである。この果実を「安土幕府」によってもぎ取ろうとしたのが信長だった。
もちろん、鉄砲が普及したからと言って、即集権化するというほど単純な話ではない。日本の場合は、軍事革命によって短期間で中央主権へと領主制の再編がなされたが、ヨーロッパでは分権国家体制がしばらく続き、絶対王政を経て市民革命が勃発し、近代が開幕した。あくまでも、信長が意識的に推進した点が重要である。
天正2年の長島一向一揆掃討戦の2万人、天正3年の越前一向一揆掃討戦の3,4万人のように、数万人規模の死者を出すような凄惨な戦争は、鉄砲戦の一般化以前にはまずありえなかった。信長は、特に民衆闘争としての一揆の鎮圧には容赦なく鉄砲を大量配備した。
安土時代の信長は、大量の鉄砲投入を背景とした野戦築城による決戦や、長期に及ぶ付城戦の敢行によって、敵方の戦国大名や大規模一揆をせん滅することが可能になったのである。これこそが、日本という国が信長という改革者を得て、集権化に向けて大きく舵を切ることになる基本的条件であった。




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