環伊勢海政権の時代 1.分権から集権 ~戦争ビジネス~ |
特に武士身分出身でない羽柴秀吉などは、ほとんど抵抗なしに物量戦としての戦争を受け入れることができた。商人的な才覚豊かな秀吉は、むしろそれを積極的に敢行し、自らの経済基盤を確立する商機と位置付けていた節もある。 のちの天正14年、豊後の大友宗麟が秀吉の庇護を取り付けるために築城中の大坂城を訪問している。宗麟が国許に報告した書状には「諸国より馳走人夫、幾千万と申すばかりなく候、その国の祇園・放生会四つ五つ合わせ候ても、人数はこれほどこれありがたく候」と心底驚嘆している。 諸国から派遣された大量の人夫と豊富な資材によって、極めて短期間に築城する技術は、うち続く戦争を通じて進化したものだったが、ここで表現されているように秀吉の場合はけた違いであった。その原型を、天正9年の因幡鳥取城攻略戦に見ることができる。 秀吉は、前年に密かに商人を使って米を買い占めていた。若狭の商人が飢饉のために買い付けてきたということにして高値で米を求めたため、鳥取城内外は備蓄米まで欠乏することになってしまった。秀吉が鳥取に出陣したのは、例年でも米が欠乏する6月であった。 秀吉は、鳥取城向かいの山に大規模な陣城を構え、付城群の築城を開始した。「太閤記」によると、本営は7月1日より着工し、10日頃には早くも塀・櫓・二階門・堀に至るまで完成されたという。そして付城は10町ごとに三階櫓を上げ、騎馬武者20人、すぐれた射手100人、鉄砲100挺をそれぞれに配置している。さらに5町ごとに番所を設け、番士を5,60人ずつ交代で置き巡回させた。
「ある時、私が羽柴方の陣所へ忍び込んでみると、秀吉の陣は一段と高い所に、山陣ながら高棟を無数に作り並べ、その真中に五重の殿主をあげて、惣陣を只一目に見渡す様に作っていた。陣取の様は、魚鱗・鶴翼に取り、雲鳥の陣の構えとみた。 さて高松城への攻め口を見ると、北東は山である。西南には堤を広さ約十間、高さ十二・三間に築き上げ、毛利方が攻める方向には兵を塗り、簀子を結い、十間程ごとに殿主をあげ、その中間には行灯を一間に一宛灯し、内には精兵を隙間なく配備していた。また高松城の周囲には水がたんたんと湛えられ、大海のようで、舟を数百艘浮かべ、舟の上にも殿主を組み、大筒・小筒を撃ち、攻め寄せる時は貝・鼓を鳴らし、全軍で鬨の声を上げ攻め戦った」 毛利輝元に仕えた吉保は、31歳の時に備中高松城に従軍した。彼は大胆にも、秀吉の本陣に忍び込み、その陣容を観察したという。本陣が据えられた石井山山頂には、五重の天守を中心に建造物がひしめくように建っていたことが記されている。天守が築かれていたかどうかは不明だが、あながち誇張ではないだろう。
そして、水攻めでも大堤の要所に櫓を持つ付城を構えた。陣城や付城、それらを結ぶ土塁や水攻め用の堤防などを普請するために、近隣から大量に百姓が動員された。彼らには賃金が支払われ、たちまち市が立ち、町場が形成されたという。ただし、準戦闘員といってもよい動員なので、短期間で完成させるために、かなり厳しい酷使があったものと推測される。 天下統一戦に伴う戦時経済の活況は、京都を中心とする首都市場を復活・拡大させたが、同時に地域社会でも戦時の様々な動員や平時の築城や城下町建設をはじめとする「公共事業」によって、一時的ではあるが民衆の雇用を促進したということもいえる。その出自から経済感覚の鋭い英吉ではあったが、それは信長の統一戦によってさらに研ぎ澄まされていったのである。 |