環伊勢海政権の時代
1.分権から集権
 ~付城戦~
 


 長期化する戦争に対応する付城戦
戦国大名間の戦争では、万単位の軍勢が動員され、大会戦や攻城戦が行われた。しかし軍隊内での足軽以下の雑兵の割合が極めて多く、兵站の確保に限界があったため、なかなか敵方と雌雄を決するまでには至らず、長期にわたって所領の境目をめぐる戦争を繰り返した。
もちろん、敵城の周辺に陣城・付城を築くこともあるが、それは小規模で限定的だった。付城戦は時間と戦費を必要とするから、それよりも敵領に侵入して刈田や放火を行って心理的な圧力を与え、敵方の内応を画策するという戦術が基本となったのである。つまり消耗の激しい主力決戦や攻城戦をできるだけ回避して、粘り強く調略を行い、勝機に臨めば一気に勝敗を決するというものだった。
環伊勢海諸国を基盤としたのち、信長の戦争は一時的な勝敗を問題にするのではなく、占領地域を領国に編入し、さらには敵対勢力の息の根を止める殺戮戦へと変化した。まさしく長篠の戦いで実証した野戦築城、即ち付城群を有効に活用した戦術―付城戦は、それに照応するものだった。
付城戦には、付城群をつなぐバリケードとして逆茂木や土塁が普請され、堀が伴うことがあった。従って土塁が巨大化した水攻めも、その一形態に属する。信長をはじめとする天下人たちには、付城戦を遂行する技術と資本が蓄積されていたのである。
攻撃・守備拠点としての機能を果たす陣城・付城・陣所などの要塞を、敵城の周囲にごく短期間に多数構築して敵対勢力を孤立させるという戦法は、戦国時代末期から織豊時代にかけて全盛となった。敵城を包囲して鬨の声をあげ、夜は篝火を煌々と炊き、徐々にしかも確実に精神的な圧力をくわえる。投降を勧告したり、様々な情報を流して敵を参らせるのである。自軍の将兵の損傷を押さえることができ、また周囲の町や村の住民を戦闘に巻き込まないことからも、結局は安上がりの戦いとなるのである。
 信長の付城戦の推移
信長の付城戦には、二つのピークがあった。
第一のピークは、岐阜時代にあたる元亀年間である。義昭の指示で大坂本願寺と浅井・朝倉両氏、そして延暦寺などが連携したことに応じて、信長が近江小谷城と近江佐和山城、比叡山、大坂本願寺などに対して付城群を築いた。
興味深いのは、小谷城の付城虎御前山砦と横山城とつなぎの城として、八相山と宮部郷に要害を築城し、虎御前山砦と宮部要害とを結ぶ道幅を三間半とし、高さ一丈の築地(土塁)を五十町にわたって普請し、その外側に堀を掘ったことである。
付城をバリケードで結ぶのは、安全な連絡路の確保という意味もあった。浅井・朝倉軍は、早速この巨大バリケードを引き崩すことに挑戦するのだが、秀吉の応戦によって破壊することはかなわなかった。
第二のピークは、安土時代の天正6年(1578)から同7年にかけてである。ほぼ同時に、大坂本願寺、摂津有岡城と花隈城・尼崎城・三田城・播磨三木城・神吉城・摂津端谷城・摂津道場城・淡河城、そして丹波八上城・黒井城などに付城を配置して包囲戦を行っている。普請された付城の総数は百を下さらないと推定され、以後これだけの規模で同時に付城戦が展開されることはなかった。これに対して毛利氏は、播磨魚住城から三木城へ、あるいは兵庫津から花隈城や播磨丹生山城を経由して淡河城や三田城、八上城などへ兵糧を入れたという。
第二のピークは、信長が義昭によって編成された広大な包囲網と厳しく対峙した時期と重なる。大坂本願寺・荒木村重・別所氏・波多野氏・赤井氏らは相互に連携し、花隈城には義昭の側近小林家孝が軍監として出張していた。別所氏・波多野氏・赤井氏は、婚姻等を通じて緊密な関係を形成しており、これらの信長包囲網には播磨御着城の小寺氏や阿波の三好氏、紀伊の雑賀衆なども連なっていた。
信長は、一丸となって抵抗する西国勢力に対して付城戦を敢行した。膨大な付城群には、常に多くの兵力が駐屯していたわけではない。明智光秀などは、有岡・三田・八上などの陣所をしばしば移動していた。付城戦は少ない兵力で敵方を釘付けにするばかりでなく、毛利氏の出方を探るための格好の戦術でもあったのである。
 情報戦の時代
ここで付城による攻城戦の実態を、明智光秀による丹波八上城への攻撃から検証する。
天正6年4月に信長は、光秀を八上城に派遣した。11月の書状で、光秀は家臣に対して、しっかりと付城を守備するように指示したのに続いて、摂津有岡城主荒木村重の重臣で、摂津三田城主だった荒木重堅が来援したとしても大したことはないと記している。光秀は同年10月に反乱を起こした村重と、八上城主波多野秀治との連携を意識していたのである。
光秀は、12月から八上城を本格的に攻撃する。八上城の三里四方に「堀をほり塀・柵幾重も付けさせ」、秀治を孤立させようとした。近年の研究では、八上城の周囲に二十近い付城遺構が確認されている。
秀治は決して防戦一方ではなく、天正7年正月には敵方の本陣近い籠山砦を襲い、2月にも兵庫屋惣兵衛に徳政免許をはじめとする諸特権を与えた。長期の籠城戦は、惣兵衛のような地元商人による情報伝達や兵糧補給などの支援に支えられていたのであろう。
しかし5月には包囲網が狭められて、城山全体が取り囲まれた為、城内は「4,5百人」もの餓死者で満ち、攻城軍が本丸に突入することが目前に迫った。ついに6月、1年以上に及ぶ籠城戦の末、秀治は降伏するが、信長からは許されず処刑され、波多野氏は滅亡したのである。
まずこの段階の戦争が、高度な情報戦であったことが重要である。秀治は孤独で絶望的な籠城戦に耐えていたのではない。彼の行動は、天正6年2月に播磨三木城主別所長治が信長に離反したのに同調するものであり、丹波黒井城主赤井直正や播磨御着城主小寺政職もこの動きに加わっており、荒木村重の反乱もこれに呼応するものだった。
このように摂津・丹波・播磨の諸大名たちは、一斉に信長を離れて大坂本願寺と連携した。彼らは共同戦線を形成しており、後詰勢力、すなわち足利義昭を推戴した毛利氏が、上洛戦を開始することを待望していたのである。この時期、村重の持城である摂津花隈城には、義昭が軍監として特派した近臣小林家孝が詰め、毛利氏と連絡を取っていたのである。





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