環伊勢海政権の時代
1.分権から集権
 ~野戦築城~
 


 長篠の戦い
信長の戦法に質的な発展がみられるのは、天正3年(1575)の長篠の戦いの前後からである。永禄11年に上洛し、堺や国友村を掌握した信長の鉄砲保有量は、他の大名を圧倒するようになる。千挺を超える大量の鉄砲を集団的に実戦に投入することが可能になったのである。
まず鉄砲隊と長槍隊との質的差異を検証する。いうまでもなく、鉄砲はそれ自体が高価な武器で、足軽クラスが購入できるような武器ではない。しかも大量に装備すればするだけ、大規模な戦果が確実に得られることから、信長のみならず諸大名とその家臣団も、最優先して購入した。
鉄砲製造地を掌握し、鉄砲商人と砲術師を確保し、集団的に射撃訓練を行う体制を築いてこそ、初めて鉄砲隊が成立したといえる。玉や玉薬の安定的供給は、それらの原料の鉛や硝石を産する東アジア地域との交易に頼っていた。いずれも、当時の日本では産しないものだったからである。
当時中国の明は海禁政策を国是としていたから、禁輸品である鉛や硝石を運んだのは、今井宗久などの堺商人とつながる東アジアの武装商人団、そしてポルトガル・スペインなどの商人団やイエズス会関係者であった。信長の堺商人や南欧勢力・宣教師たちとの友好関係の構築は、この点からも重視されるものである。
 織田軍鉄砲隊の編成
鉄砲隊といえば、長槍隊と同様に足軽に集団的訓練を施して編成したものという印象が強い。しかし、信長の鉄砲隊は、れっきとした武士によって成り立っていた。何よりも鉄砲はかなり高価な武器であったし、個体差つまり一挺ごとに癖があったから、個人所有の原則を取らざるを得なかったのである。鉄砲が低価格化し高性能化して、足軽鉄砲隊が編成されたと考えられる。おそらく、信長にあっても安土時代に入ってからではないか。
「長篠合戦図屏風」によると、張り紙が施されている信長や家康の中・上級家臣たちが、馬防柵の前後から武田軍を狙撃している。これは、永禄4年の川中島の戦いにおける武田軍の配陣をリアルに描いたとされる「武田信玄配陣図屏風」でも明瞭である。信玄が鉄砲を重視していたのは事実だが、鉄砲を所持した足軽は描かれていない。
信長の鉄砲隊とは、基本的には家臣団を組織したものとすることができる。従って初期鉄砲隊は、長槍隊よりは上級兵種であり、政権による一元的編成というよりも麾下大名ごとに小規模編成されており、自律性が高かったと思われる。そのせいもあってか、長篠の戦いでは、信長が鉄砲隊の派遣を細川氏や筒井氏に命じている。それらを集団編成して使用したのである。
 野戦築城の妙
鉄砲の大量使用を効果的にするには、敵方勢力の攻撃から身を守りながら射撃できる陳地の構築が必要だった。これが野戦築城である。現在も長篠の合戦場には陣所遺構が確認できる。近年の研究によりそれらはかなり正確に復元されており、高度な築城技術を投入し、高い切岸を効果的に構築し、寄せ手との比高差を意識していたことが伺える。
長篠の戦いは、三千挺の鉄砲の三弾編成による一斉射撃で有名であるが、近年の研究においては否定的である。当時の信長の鉄砲の保有量や、三段編成の現実性・効果性などが疑問視されているからである。それでも、史料的には千挺程度の仕様の可能性は否定できない。おそらくは、目標に向かって臨機応変に銃撃したというのが実態だろう。
しかし、この戦争の重要性は、何といっても野戦築城による鉄砲戦が、敗者側に従来と比較にならないほどの損害を与えるだけではなく、信長も「御味方一人も破損せざるの様に」と意識したように、勝者側に負傷者が極めて少なくて済むという魅力的なメリットを生んだことである。
信長の野戦築城戦法は、武田氏のような鋭く、しかも俊敏に敵勢の前衛部隊に食い込むことを重視した伝統的な戦法を、完膚なきまでに打破したのである。戦争史においては、この点が何よりも重要なのである。
根来衆のような鉄砲傭兵集団さえ現れ始めたこの時期、資本力のある中央権力が、様々なリクルートシステムを構築して優秀な鉄砲隊を編成することで、確実に天下の実権が掌握できるという可能性が、誰の目にも明らかになった戦争だったといえる。




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