環伊勢海政権の時代
1.分権から集権
 ~鉄砲の時代~
 


 鉄砲を巡る科学の発達
信長が主導する軍事革命を支えたのは、製作者としての鉄砲鍛冶集団の成立である。堺や国友村の鉄砲鍛冶が、その代表であった。しかし鉄砲のみならず、それに必要な玉薬や玉の原料である鉛を調達する武器商人なくして、購入者と生産者は結び付かない。鉄砲の量産システムは、鉄砲職人(生産者)-鉄砲商人―武士(購入者)という三者間の緊密な関係がなければ誕生しなかったのである。
もちろん、それだけではまだ鉄砲の実戦への導入にはつながらない。火器の取り扱い全般に長じた砲術師によって、鉄砲の扱い方や火薬の調合法が戦闘員に広く浸透せねばならないのである。様々な鉄砲、更には大砲―石火矢―大筒・国崩・フランキなど―の戦場への投入によって、戦争に本格的な科学的知識が要求されるようになった。
目標を正確に攻撃するために、火薬の調合法・様々な素材と形態からなる玉の製作、それに加えて大砲の場合は、仰角・玉行(弾道)の計算などの知識と経験が必要とされた。それに応えるように、稲富一夢のような砲術師たちが諸国を廻り、鉄砲の使用法や玉薬の調合法をはじめとする様々な知識と技術を伝えたのであった。
 外科医術の発達
なお、火器による戦闘が、玉傷の場合、即ち外科医術の発展を促したことも忘れてはいけない。毒性を持った鉛玉が体内に入った場合、従来の医術では対応が困難だった。たとえば「雑兵物語」からは、雑兵達が「外科の薬箱」を持参していたことをはじめ、種々の治療法が試みられたことがわかる。また、鉄砲の伝来と時を経ずに、南蛮流外科医術が受容されたとする指摘も重要である。
 鉄砲普及の段階
戦国時代における鉄砲の受容には、およそ次のような三段階があった。
まずは、高価な貴重品で狩猟や限定的な戦闘にしか使用されず、贈答品だった段階である。自らも砲術を修行し鍛冶に鉄砲を製作させていたことで知られる将軍足利義輝は、大友氏などの戦国大名から南蛮鉄砲の献上を受けて収集したり、天文21年(1552)に大坂本願寺に玉薬の原料となる焔硝を所望している。
続いて、鉄砲隊の成立に従い、戦術に変化が見られる段階である。やがて鉄砲は大量生産され、鉄砲商人が介在し、諸国の領主層が積極的に購入するようになる。これは諸国を廻る砲術師が、鉄砲の使用法を伝えたことと密接に関係する。
織田信長は、鉄砲隊を効果的に野戦や攻城戦に使用したが、天正6年には炮烙や鉄砲による攻撃に対応する、鉄板張りで艦載砲を装備した甲鉄船を建造させることで、海戦にも大きな変化をもたらした。火器の軍隊への本格的な導入によって、信長の軍事力は飛躍的に向上した。
最終段階として、大砲戦が本格化し、徳川家康による国家統一が完成した段階となる。関ケ原の戦い以降、それまでの鉄砲中心から大砲を本格的に活用する戦闘へと変化する。家康は、国友鉄砲鍛冶を編成して大砲を鋳造させたばかりか、イギリスやオランダの商館を通じて優秀な大型火器を購入し、大坂の陣に投入して戦果を挙げたのである。




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