環伊勢海政権の時代 3.公武一統思想 ~復古政治~ |
しかし、このような側面だけで、信長の政権構想を理解してはいけない。天正元年12月信長は正親町天皇の譲位と誠仁親王(正親町天皇の第一子)の即位を朝廷に強く迫った。この時点で信長は、自家薬籠中の誠仁親王の即位と義昭の子息義尋の将軍宣下とをあわせておこない、彼らを抱える実権者として自らを打ち出す戦略を立てたと考えられる。 これについては、同年12月12日付で義昭の処遇を巡って上洛していた毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊が、国許に宛てた長文の自筆書状によっても明らかである。彼は、信長から直々に聞かされた話として、来春の礼(将軍に対する大名の年頭儀礼)は義尋にするべきであると言われたと報告しているのである。当時の信長は、幕府と朝廷とを直接掌握した「公武一統」政権を樹立させようとしていたとみられる。
その理念は、洛中洛外図の描写に凝縮されている。それは、下京隻の「内裏様」お上京隻の「公方様」の二つを要として、それらの調和を志向するものであって、「内裏様」部分への書き込みの際立った多さからも、復古的な政治秩序への回帰志向を読み取らねばならないであろう。 たとえば、天正2年3月に三条西実隆が醍醐寺理性院尭助に宛てた書状に、「信長、公家一統の政道、五百年以前の如く申し行うべきの由、存じ奉り候」と記されているように、当時の公家も信長の政治路線を復古政治の実現と見ていたことが確認される。洛中洛外図は、足利義輝の「天下」観を表象したものであったが、信長のそれも極めて近似するものであったようだ。 かつて信長は、永禄2年2月に上洛して義輝に謁見し忠節を誓った。その際「公武一統」政治の実現を目指し、両社は強く結ばれたものと思われる。また永禄7年12月に義輝から御内書を与えられた信長は。「誠に生前の大事、これに過ぐべからず候」と返答している。 信長が、義輝のよき理解者であり信奉者でもあった謙信に洛中洛外図を贈呈したのは、義輝と盟約して以来抱いていた自らの政権構想を伝え、同盟関係を維持するためと理解される。これは信長にとって、自らの政治理念を表明した長文の書簡を認めるよりも、はるかに有効な手段であったに相違ないのであり、義昭の信長包囲網形成への動き封殺するためにも、一刻も早く実現されねばならなかったのである。
この屏風が創作された時点では義輝であった可能性が高いのだが、謙信が見て強くイメージしたのは、今は亡き義輝よりも、その弟義昭の子息義尋であったのではなかろうか。恐らく謙信は、本来の送り主であった義輝の意図を理解し、それをふまえたうえで、信長の発した政治的メッセージを鋭く読み取ったに違いない。 何故なら信長が義昭の新御所を造営したのは、かつての義輝の御所跡、すなわちに洛中洛外図描かれた武家屋敷であった。謙信がこの家の門前に描写されている幼君を、信長が庇護する義尋と認識するのは自然ではなかっただろうか。謙信は、洛中洛外図を見て信長からの政治的メッセージを正確に読み取り、義輝の目指したあるべき「天下」すなわち「公武一統」の世を、管領相当者である信長が将軍子息義尋を推戴することで継承・実現しようとしていると判断したからこそ、義昭追放後も同盟関係を破棄しなかったのではなかろうか。 洛中洛外図を越後へ搬送する時期、加賀の一向一揆が織田領の越前に乱入したり、武田勝頼が美濃や遠江に侵攻するなど、信長にとっては深刻な事態が表面化していた。したがって、謙信が義昭陣営に与することだけは、何としてでも阻止せねばならなかったのだ。このように考えると、洛中洛外図によって信長は存亡の危機を脱したとさえいえるのである。 |