環伊勢海政権の時代
3.公武一統思想
 ~洛中洛外図屏風~
 


 上杉本洛中洛外図屏風
足利将軍の時代ではなくなりつつあったが、まだこれに代わる支配体制を誰も構想できていない。信長方の戦国大名と良好な関係を維持しようとすれば、必然的に将軍を尊重しているという姿勢を示さなければならなかった。これに関連して、天正2年春に信長が上杉謙信に贈ったといわれる「上杉本洛中洛外図屏風」に注目したい。黒田日出夫氏が次のような根拠を示している。
「上杉本洛中洛外図は、将軍足利義輝が盟友上杉謙信に贈るために、永禄7年末か同8年初めに、若き狩野源四郎(永徳)に命じて製作させたものである。義輝がそれに込めたのは、永禄4年閏3月に事実上の関東管領に就任した謙信に対し、一日も早く上洛して将軍を補佐し、あるべき天下にせよとの政治的メッセージであった。義輝は、永禄8年5月に松永久秀らに襲撃され横死する。それにもかかわらず永徳は製作を続行し、義輝の百箇日の2日後の9月3日に完成させた」
「永徳は、やがて信長が新たな支配者になりつつあるのを見定めたうえで、自己の画業を売り込む一環として、洛中洛外図をその数奇な運命とともに披露したのであろう。信長は、当時対武田勝頼戦略のために謙信と軍事同盟を結んでいたが、しばしば違約し詫びていた。永徳から洛中洛外図を見せられた信長は、本来の受け取り手が謙信であったことを知り、信頼関係を維持すべく屏風を送った」
 信長が謙信に贈った意図とは
上記の黒田氏の説の論拠は、米沢藩の正史「上杉年譜」に先行して作成された「謙信公御書集」天正2年3月条の「同年3月、尾州織田信長、使者として佐々市兵衛を越府に遣わす、屏風一双を贈らる、画工は狩野源四郎貞信、入道永徳斎、永禄8年9月3日にこれを画く。花洛尽、書礼に及ばる」という記事にある。
「謙信公御書集」は、近世前期に成立した合計15冊の極めて信憑性が高い本であり、享禄3年(1530)から天正6年の謙信の死去に至るまでの史料が編年体で収録されている。この発見が、上杉本洛中洛外図屏風に関するこれまでの研究水準を新たな地平に導いた。
ここで問題となるのが、信長が謙信へ洛中洛外図を贈答したことの意味についてである。黒田説によると、逆算して天正元年の年末から翌年の年始頃に、信長が六曲一双からなる洛中洛外図を、京都から搬送させたことになる。
何故厳冬期に、それはなされねばならなかったのであろうか。天正2年3月に越後春日山城に無事到着した大型の屏風は、深雪を冒してまで運ばれたものであった。この背景については、当時における信長と義昭との対立からでないと正確に理解することはできない。
 信長の懸命な外交
義昭は、三好義継の河内若江城を経由して紀伊由良興国寺に動座したが、早速信長包囲網を画策し、武田勝頼と上杉謙信との軍事同盟締結の実現に向けて全力を傾注した。当時の信長は、将軍追放をきっかけとした反信長勢力の一斉蜂起を懸念しており、とりわけ友好関係にあった謙信の離反を恐れていたのである。
未だ京都周辺にすら敵対勢力が存在している状況の下、信長は人質として徴発した2歳の義昭子息の義尋を「大樹(将軍の唐名)若君」として庇護・推戴している。近い将来、この幼君を新将軍にしたいとの意思を表明することによって、諸大名に決起のための名分を与えないようにせねばならなかったのだ。信長は、義昭を追放したことによって、人物としての義昭を否定しても、室町幕府まで否定したとは見られたくはなかったに違いない。




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