環伊勢海政権の時代 3.公武一統思想 ~牢人将軍~ |
これについては、信長の「天下観」の変遷を追求していかないとわからないだろう。ここで着目されるのは、元亀3年9月付十七箇条意見状の第十条と第十七条である。 第十条では、同年3月29日に不吉ということで改元について幕府に勅命が下ったにもかかわらず、半年後の今になってもそれがなされていないことに対して、勅命を奉ずることが「天下の御為」であり、油断してはならないと指摘している。 このように信長は、勅命に従わない者は、たとえ将軍であっても批判の対象とする。信長は、第11条でも義昭に朝廷への奉仕を説いており、自らを天皇を直接支える武臣として位置付けていた。これは第17条において、義昭に対する「土民百姓に至るまでも、悪しき御所と申なし候由」という手厳しい批判を取り上げ、赤松満佑に殺害された将軍足利義教の例まで持ち出して、どうして庶民からそのような陰口をたたかれているのか義昭に反省を求めていることとも関連する。
その第4条で、これ以後の「天下の儀」は義昭に代わって信長が執行する事。そして第5条では「天下静謐」を実現するために朝廷を蔑ろにしないようにすべき事が記されている。 信長は、条書の内容を義昭に認めさせ、印判を据えさせた。内容的に符合することからも、先の17か条の意見状については、5か条の条書を踏まえて作成されたことが明らかとなる。
「信長公記」では、元亀4年7月における信長の義昭追放に関して、公方が填島城に立て籠もって「御謀反」したので信長がやむなく退治した結果、「御牢人」となったと表現している。信長の弓衆として近侍した著者太田牛一のこのような認識は、決して信長のそれとかけ離れてはいなかったと思われる。 あくまでも「天下」を掌握する信長が、「公方」である義昭を支えていたのであって、「天下」に従わない「公方」は、結局牢人にならざるを得なかったと認識したのである。しかしこの段階の信長は、まだ完全に将軍権力から自由であったわけではなかった。 |