環伊勢海政権の時代
2.家臣団と次代の育成
 ~岐阜城の信長~
 


 東洋のバビロン
永禄12年(1569)の岐阜、この頃の信長は上洛を果たし、天下布武の名の下で天下に名を知らしめた頃である。
信長の入城とともに城郭が本格的に改修され、稲葉山城から岐阜城へ改名された。金華山の山頂に営まれた城郭において、信長とその家族、そして諸国の服従領主から預かった人質たちが生活し、山麓には政務を執行する大規模な成長が設けられ、常に近習や重臣たちが伺候するようになった。信長は、日常的に城郭と成長との間を上下した。
城下町も、小牧をはじめとする尾張の諸都市から町人が大量に移住することによって拡大し、殷賑を極めた。この年の5月、イエズス会宣教師ルイス・フロイスは信長を訪問している。室町幕府を復活させた実力者に、布教の許可を求めたのである。
その折の岐阜の様子を「人々が語るところによると、八千ないし一万の人口を数える」という大都市になっていたこと。しかも「同所では取引や用務で往来する人々がおびただしく、バビロンの雑踏を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や反物その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まって」繁盛していたと記録されている。ちなみに例えられたバビロンとは、古代バビロニアの首都として繁栄した古代都市のことである。
同年7月には、老齢の山科言継が遠路を厭わず岐阜の信長を訪問し、9月に迫った後奈良天皇の十三回忌の法会の費用調達を依頼している。その折に宿所としたのは、塩屋を営みながら信長の近習でもあった大脇伝内の屋敷だった。当時の信長家臣には、伝内のように兵・商未分離の者も少なくなかったのである。
これらからは、岐阜の繁栄は物量戦を支える大量の物資だけではなく、信長の近習はもとより、物資の調達・管理などに関わる家臣団や足軽などの雑兵まで含めた、軍隊の供給を保証するものであったこともうかがわれる。
岐阜は、山上の城郭―山麓の政庁(御殿)-城下町(政庁周囲には家臣団屋敷、その周辺に町人町)とそれを囲む惣構(外郭)の土塁という構造を持ち、いつでも畿内方面への大軍団派遣が可能な、まさしく城郭を核とした軍事基地というべき兵営都市としての機能を持っていたのである。城下町とは、いつでも移動可能なベースキャンプというのが信長に思想なのである。
 岐阜城下町
最近、城下町としての岐阜については研究が進んでいる。特に惣構が廻らされている城下町と、その周縁部にある加納市場との関係をどうとらえるかで議論が活発化しているようだ。
これまで岐阜城下町は、戦国城下町の二元構造の代表例として取り上げられることが多かった。つまり、惣構内部を主従制・イエ支配の空間で、家臣団、直属商工業者の居住区とし、周縁市場をイエ支配の及ばない非主従的空間「楽市」「公界」としてとらえ、戦国城下町は両者から構成されるとみたのである。
それに対して、最近、城下町としての岐阜を総構内部に限定してとらえる見解が提出されている。周縁市場が地域の中心市場であり、信長以前から独自の市場だったとするのである。
確かに、信長の時期には二つの町場が存在し機能していたことは間違いない。惣構内部には、信長家臣団や塩屋を営んでいた信長の近習大脇伝内のような武士的な直属商工業者も居住していたであろう。このようなベースキャンプと周縁の加納のような市場は区別すべきである。これに関連して、加納市場の東端に位置する瑞龍寺に信長家臣団が出入りしていたことは注目に値する。
 二つの町場が城下町として機能
蒲生氏郷は、瑞龍寺の南化玄興に師事して儒教や仏教を学んでいる。十代半ばの氏郷は、人質として岐阜城で起居していたのだが、ここまで出向いて学問にはげんでいたのである。岐阜城下には、古刹などのしかるべき学問所がなかったようだ。おそらく他の大名・領主の子弟たちも、岐阜城下から加納まで通っていたかもしれない。
そうすると、加納市場は岐阜城下とは異なった伝統的な町場で、信長から期待される役割が岐阜城下町とは異なっていたとみるべきであろう。ここには瑞龍寺の他、中心的な寺院洗泉坊や樫森神社などの寺社が鎮座していた。
両者の町場を一体としてとらえるか、別々とするのか判断は難しいが、岐阜城下町で暮らす人々にとっては必要不可欠な隣接する町場であっただろうから、これらを一体的にとらえることも可能かと思われる。両者合わせて広義の城下町と見るのである。実際、岐阜と加納は中心地間は二キロ程度しか隔たっていない。





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