2・都市型領主の系譜
銭貨収奪システム

    突出した銭貨蓄積
尾張時代の信長は、三間半もの長槍を組織的に使用できる部隊を編成していた。これこそが、彼の軍隊の強さの秘密だった。しかしなぜ信長のみに、それが可能だったのだろうか。これを支えたのは、間違いなく突出した銭貨蓄積によるものである。しかし銭貨収奪システムの実態を物語る史料は、極めて乏しい。
当時の信長の経済政策でみるべきものは、環伊勢湾地域(伊勢湾と三河湾を含む呼称で、その沿岸地域を指す)の港湾都市に寄生した流通交通にあった。ここに、銭貨収奪システム解明のためのヒントが潜んでいる。
かつて父信秀が、山科家など京都の公家との交流を持ち、朝廷や伊勢神宮へ何千貫文もの大金を献金し得たのは、津島や熱田といった有力港湾都市を掌握したことに求めることができるからだ。商人たちの保護への反対給付として、租税を銭貨で徴収したと考えられる。従って信長の経済力も、父譲りの銭貨蓄積によるものだったとみてよいだろう。
銭貨収奪システムとの関連で注目されるのが、判銭と呼ばれる、平和の保障や旧来の諸権利の安堵を約束した信長の判物(のちの朱印状)発給に伴う手数料(献金と同義)である。当然これは、戦争の前後に得られるものであった。
    ルイス・フロスの証言
これに関連するイエズス会宣教師のルイス・フロイスの証言がある。ポルトガル人のフロイスはイエズス会入信後、インドのゴアでフランシスコ・ザビエル二であった日本行きを決心し、来にt後は信長ともっとも多く会い親しく接した外国人である。日本語には極めて堪能で、日本におけるキリスト教布教史をまとめた「日本史」は史料的価値が高い。
「主要な寺院や偶像のすべての仏僧の長老たち、諸域の司令官、堺のような都市や大きい町などは、朱印と称される赤いインキの印がある信長の允許状(朱印状)をもらわないと、皆、自らの収入、城塞、寺院などが安全でないと思っているのを見て、またそのために彼らはその土地や場所の性質に応じ、通常これを入手しようとして多額の金銀をもたらすのに接したことである。すなわちある者は1万クルザード、ある者は5千、6千を提供し、また仏僧らは15本、20本の金の棒を差し出した。
信長の勢力下に組みこまれた地域の寺院・領主・都市においては、信長から旧来の所領あるいは諸特権の安堵を認める朱印状を交付してもらうため、判銭として自らの身分と立場に相応する莫大な献金を、積極的に行ったことが記されている。
これこそ、当時日常的に行われていた贈答すなわち賄賂とも同等の、伝統的習俗といってよいだろうし、尾張時代の信長文書に含まれる制札・禁制作成の背景とも考えられる。
ここで注目されるのが「無縁所」である。信長は、雲興寺・東龍寺・正眼寺などに対して、「無縁所」として諸役の免除、金融活動・買得地の安堵、国中の自由通行権を保障している。
    無縁所
「無縁所」とは、門前町などで都市的空間を伴っており、アジール(世俗の世界から遮断された不可侵の聖なる場所、平和領域で、武士の直接支配を排除する土地)である「楽市」と同様に、尾張の諸地域に点在していた。信長が道三と会見した聖徳寺も、美濃国境に近い真宗寺院で、尾張・美濃両方の領主権力から認められた一種のアジールであった。
信長は尾張統一の過程で、服属した寺院・領主・都市に対して旧来の諸特権を認めるとともに、「無縁所」などといわれた、それまで特定の領主に属さなかった自治権を有する寺社を中核とする都市的な場についても、制札・禁制などによる平和保障と特権安堵を通じて、直接把握していったのである。
もちろんこれらの安堵には、信長が育成しようとしている御用商人や一部の城下町を除くと、信長への莫大な判銭拠出と今後の奉仕の約束が前提としてあったと考えられる。このように毎年行われる大小の戦争と所領の拡大そのものが、信長に巨額の富をもたらす構造を強化していたのである。
ちなみに、信長の旗印が当時最も流通していた中国銭である永楽通宝だったことは有名である。今日でいうところのドル紙幣を旗印にしているようなものである。また現在、安土山の総見寺には、信長所用の鉄砲といわれるものが伝来するが、その表に六枚、裏に七枚の永楽通宝が銀象眼で施されている。いかにも、経済感覚の鋭い信長の行いそうなことである。
 





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