2・都市型領主の系譜 信長の強さの秘訣 |
長槍隊と兵農分離 |
尾張時代の信長の軍隊の特徴は、鉄砲隊よりもむしろ優秀な長槍隊であった。信長の尾張統一過程における鉄砲保有量は、他の戦国大名と比較しても決して多くはなかった。この時代、鉄砲はまだ、弓と共に長槍隊などの側面援護を行う段階でしかなかった。鉄砲保有量が急増したのはこれより後、信長が上洛して鉄砲の製造地であった和泉堺や近江長友村を掌握した永禄12年以後のことで、それにより弓隊との混成部隊から自立したのである。 鉄砲伝来以前の武器の主役は刀ではなかった。長槍と弓・礫・焙烙等の種々の飛び道具であり、それらを扱う足軽が軍勢の過半を占めた。足軽以下の雑兵の多くは百姓出身であり、戦国大名やその家臣の挑発に応じて出陣したが、規格品である長槍をはじめとする装備は概ね領主側で用意されたようだ。 長槍は主として叩くものだから、長ければ長いほど有利だった。訓練された槍持ちの足軽が横隊を編成し、隙間を作らないように叩きながら前進するのである。たとえそこに騎馬隊が突撃してきたとしても、一斉に長槍後尾の石突きを地面に突き刺し固定して穂先を敵側に向けた大規模な槍衾を作れば、いかに強力な騎馬隊でも突破することなど不可能だった。 しかし長槍は長いほど重い。さらにしなりが強いため、統一的な操作が難しく、日常的な訓練を足軽たちに課さなくては、大規模な槍衾を組織的に編成することなど不可能だった。臨機応変にフォーメーションを変え、たとえ強力な生機が突進してきたとしても、決して隊伍を崩さないように、集団的な訓練が施されていなければ意味がなかったのである。 |
リクルートされたサラリーマン足軽たち |
このように考えると、長槍隊を形成した足軽たちはサラリーマン的にリクルートされており、信長の成功はこれら足軽たちを抱える莫大な費用を捻出可能な経済力、つまり銭貨蓄積に支えられていたのだと推測できる。長槍隊には給料を支払って生活を保障したのだ。長槍の長さは、戦国大名の軍制における兵農分離度を端的に示したのだともいえる。 信長が採用した三間半の長槍は、並みいる戦国大名の中で最長だったといわれる。「信長公記」では、尾張富田聖徳寺における斎藤道三との会見の際、道三が美濃衆の槍が信長の軍隊のそれと比べると短かったのを見て、「興を覚ましたる有様」つまり不機嫌になったと記している。即座に、信長とその軍団が侮れないものであることを見抜いたのである。 実際、天文23年7月に信長は柴田勝家に命じて清須城を攻撃させるが、白兵戦の中で槍の長さに勝る信長方が勝利した。徒歩戦を中心とする当時の戦争に於いて、大規模な長槍隊の編成は注目に値する。 この長槍は、「三間間中(三間半)柄の朱やり(信長公記)」と記されているように、信長が長さばかりか色も含めて同じ規格のものを大量に準備し、足軽たちに装備したものである。これは、もはや従来のような武装自弁ではなく、たとえ百姓・町人出身であっても、腕に自身のある若者が希望さえすれば、比較的容易に仕官できるようなリクルートシステムになっていたことを物語っている。 雑兵として仕官した若者たちは、清須城に隣接する長屋で起居し、実戦を想定した槍衾を作るための厳しい訓練が、連日課されていたのだろう。そこでは、食い詰めた青年たちが立身出世を夢見て出陣に備えていた。おそらく若き日の秀吉も、このなかで待望を抱いていたのかもしれない。 |