2・都市型領主の系譜
強国の狭間

    父・信秀
戦国時代の尾張では、下四郡を支配する清須城の守護代織田氏(大和守を名乗る家柄)と、上四郡を支配する岩倉城の織田氏(伊勢守を名乗る家柄)を筆頭に、有力一族による共同支配が行われてきた。
信長の家は、清須織田氏の三奉行の一つと言われ、祖父信定の頃より勝幡を居城とした。祖父や父信秀は、居城からほど近い津島牛頭天王社(津島神社)の門前町で港町としても栄えた津島とは親密な関係にあった。
信秀は、天文7年(1538)頃に今川氏の那古野城を奪って信長に与え、自らは古渡に築城して移った。さっそく信秀は、熱田神宮の門前町として栄えた熱田を制し、その豊かな経済力を基盤に三河や美濃へと出陣を繰り返し、主家をも凌ぐ実力を蓄えた。
天文12年には内裏築地修理料として四千貫文を献上するなど、京都にまで経済力豊かな武将として鳴り響いた信秀の領主経営の特色は、フットワークの軽さにあった。草深い村社会にとどまって美田の集積を目指すのではなく、居城を移して有力都市に寄生するのである。このような合理性は、のちに信長の領主感に大きな影響を及ぼすことになる。
    美濃・斎藤道三と手を結ぶ
天文21年3月、信秀は突如この世を去った。信長は直ちに家督を継ぎ、父の軍事的達成を継承すべく、近隣大名との同盟によって対外戦を巧みに限定し、三管領の筆頭格で尾張の守護でもあった斯波氏との関係を利用して、尾張の統一を目指した。
信長の初期の外交戦略においては、守護土岐氏に代わって美濃一国を支配下の斎藤道三との関係が、極めて重要となった。長年、衝突の絶えなかった信秀と道三とが軍事同盟を結んだのは天文17年秋と言われ、翌18年2月に信長と道三息女濃姫が縁組していた。
信秀の病没翌年の天文22年4月に、信長は美濃国境に近い尾張富田聖徳寺にて岳父道三と会見し、代替わりを機に同盟を強化しようとした。この歴史的な会談について「信長公記」では、三間半もの長槍を携えて行軍する精兵部隊、正装して堂々と渡り合う信長の気迫、権謀術数の限りを尽くして国盗りした道三の老練さ等の名シーンによって、見事に活写している。
会談は、信長のパフォーマンスを道三が受け入れ、攻守同盟を結ぶことに成功し、美濃からの軍事的脅威は去った。以後、信長は尾張国内の敵対勢力および東接する今川氏への対応に専念することができた。
    苦闘の末の尾張統一
信長は、国内に向けては伝統的権威を重視する姿勢を示した。戦国時代初期まで守護代織田氏が尾張国守護斯波氏とともに在京していたこと、また尾張とその周辺諸国においては足利将軍の親衛隊である奉公衆が多かったことが、その理由として挙げられる。
天文22年7月、清須城にあった守護斯波義統は守護代織田信友の重臣に殺害され、その子息義銀は信長を頼った。それを奇貨とした信長は、天文23年5月に守護代家を滅亡させ清須城に入城し、事実上、斯波義銀の守護代となる。
当時の斯波氏は、重臣朝倉氏に追われて本国越前を捨て、尾張に拠点を移していた。形式的にせよ信長は、義銀を守護と位置付けて清須城を献上し、永禄4年(1561)に追放するまでは、それまでの守護代の例に倣い、同城の櫓に居住した。守護ー守護代による共同支配体制の復活を目指すものとして進められてゆく。
織田大和守家を滅亡させ、尾張の過半を掌握した信長ではあったが、岩倉城を拠点に同国北部に勢力を持った織田伊勢守家を討滅すること、また末森城に基盤に依然として自立性を保ち、母親土田氏や林秀貞・柴田勝家等の重臣に支持されていた弟信勝を服従させること、これらが次の課題となった。
信長は、永禄元年11月に病気と偽って信勝を清須城に呼び寄せて殺害し、永禄2年3月には伊勢守家の織田信賢を降伏させ岩倉城を破却した。織田家統一による尾張一国支配を、信長は冷徹かつ苛烈な手法で実現したのである。19歳から26歳、青年期の7年間であった。





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