1・「大うつけ」信長
信長がさからっていたもの

    権力と権威の「逆転現象」
信長がさからっていたものとは一体何か。これは、現実の権力を持つ者が、朝廷→将軍→守護→守護代→その家来、とここまで降下しているにもかかわらず、政治体制の枠組みは元のままであり、権威や文化に関しては、中央の朝廷や幕府に媚びへつらってしまう。つまり、中央の権力が下降するほど、権威の源泉としての京都の地位はかえって重要になるという、一種の「逆転現象」さえ起っていたのだ。にもかかわらず退嬰的な態度をとり続けると見えた周囲に対して、軍事的な力に基づいた権力を信奉する信長が業を煮やし、反抗していたであろうことは想像できる。
それだけではない。周囲の大名たちは、すでに権力の集中を強めて、居城も室町幕府的な平地の館から、山城へ移る傾向が顕著になってくる。尾張は統一が遅れ、いまだに一国を制する権力者すら出現していない。また、武家の世界だけではない。16世紀には、地域経済や全国的な流通が勃興し、再編され、都市形成の動きが急速に広まっていた。地域では市場が養生し、また堺や博多、あるいは寺内町など、商人たちによる自治的な都市が隆盛を見せ始めている。町によく出歩いていたらしい信長は、こうした流通経済の動きや商人世界の自立の気配も、敏感に感じ取っていたはずだ。このままではだめだという苛立ちが、信長を「大うつけ」にさせていたのではないだろうか。
    父信秀の死去
そんな苛立ちを一気に現実のものにしたのが、父信秀の死であった。信秀は、天文20年(1551)疫病のため42歳で突然死去する。時に信長は18歳である。後継者として注目を集める信長は、しかし父の葬儀で物議をかもす行動に出る。
信長御焼香に御出、其時信長公御仕立、長つかの太刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちゃせんに巻立、袴もめし候わで仏前へ御出あって、抹香をくわっと御つかみ候て、仏前へ投懸け御帰り。
御舎弟勘十郎は、折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり

三郎信長公を例の大うつけよと執々評判候なり。(信長公記より
実はここから、信長の権力闘争が始まるのだ。周囲では、「あるべきごとく」、すなわち老臣たちに共有されていた常識の通りに振舞うことのできる弟の勘十郎(信行)を支持する動きが当然出てくる。信長も、そのようにふるまって支持を集めることは可能だっただろうが、しかし、それでは何も変わりはしない。家臣たちに担がれるだけで、権力を自分に集中させていくことは困難である。常識を否定し、妥協を拒む「大うつけ」が、そのまま信長の現実の路線となったのだ。
信長が生まれた時から守り役として付けられていた宿老の平手慎英は、「信長公実目に御座なき様だいをくやみ、守立て候験なく候へば、存命候ても詮無き事と申候て、腹を切り相果て候」と、ついに諌死してしまったという。家臣団の中にも深刻な反発が出ていたことがうかがえるが、にもかかわらず信長は確信犯的に妥協を拒み続けていたに違いない。そして弟信行との確執については、最終的には6年後の弘治3年(1557)、病と称して呼び寄せ、謀殺することで決着をつけることになる。
    





戻る