伊豆韮山代官家
 ~韮山代官江川家~
 


 世襲の代官家
江川英龍は、享和元年(1801)5月13日、伊豆韮山の江川屋敷にて生まれた。伊豆韮山の世襲代官、江川太郎左衛門英毅の庶子であった。
徳川幕府の職制では、代官職は普通世襲ではないが、伊豆韮山代官だけは例外であった。もともと江川氏は徳川家康が秀吉の北条攻めの際に関東に攻め入ったとき、もともと北条氏の家臣であり、この地の地侍であった江川氏では、唯一二十八代の英長が家康に臣従、本領を安堵されたという経緯がある。そののち、英長と父親の英吉は、家康に従って大坂の陣にも出陣している。
家康は伊豆で一人の女を見初めて室に迎い入れる。伊豆国田方郡の出とも、安房国勝浦城主正木家筋とも伝えられる御万の方である。このとき、江川家では御万の方と仮親となって、家康に入興させたのである。御万の方は家康との間に頼宜と頼房をもうけた。紀州徳川家と水戸徳川家の祖先である。このことが、江川家が特別に世襲代官となった理由の一つとされる。
 天領の代官
英龍の父英毅が代官のころ、韮山代官の支配地は伊豆・相模・駿河・甲斐のほか、武蔵の一部であった。これらの地域全部の代官であったのではなく、飛び地となって散在する天領(幕府直轄領)を管轄支配するということである。石高で言うとおよロ6~7万石の支配高である。
支配地から年貢を取り立てることが代官の主任務であるが、その他に代官は警察権と司法権とを持っていた。支配地内の土木インフラの整備や産業振興も代官の務めである。
代官所の経費として幕府から支給されるのは、支配高およそ7万石であった英毅の頃の韮山代官の場合、年間約650両90人扶持前後であったという。この禄で韮山と江戸の屋敷を維持し、家臣を使わねばならなかった。代官所の諸経費は上記の公費でまかなわれるにせよ、家計は豊かになりようがなかった。
代官所は、伊豆韮山と江戸の本所南割水下にあった。韮山の代官所が伊豆と相模・駿河を管轄し、江戸の代官所が概ね甲斐と武蔵を受け持つ。それぞれの代官所に手付・手代・書役といった職員がいて、代官の諸任務を補佐した。代官は、冬の間は普通韮山に居り、夏は江戸屋敷に常駐した。
父・英毅
代官とはいえ、英龍の祖父にあたる英征(34代)は実務が苦手で、財務についても暗い人物だった。彼の時代、代官所の財政も江川家の家系も破綻に瀕した。
その跡を継いだ英毅(35代)は、財政の立て直しに懸命の努力を重ね、新田開発や荒蕪地の開墾・植林・淡水漁業の奨励など、支配地の殖産興業に努めた。それでも英毅が代官職について11年目の享和3年(1803)には、借財交渉の際、家臣・望月鴻助が割腹するという事件さえ起こっている。江川家と韮山代官所の財政が健全化するのは、それ以降のことになる。
ようやく代々の懸案であった財政の再建を果たすと、英毅は少しずつ社交の範囲を広げ、知識と教養の摂取に積極的に取り組むようになってゆく。英毅の交遊相手としては、伊能忠敬・間宮林蔵・杉田玄白・司馬江漢・太田南畝・歌川豊国ら、文化文政の時代を代表するそうそうたる江戸の学者、文化人である。そしてこの関係の一部は、息子の英龍にもそのまま引き継がれた。英龍が地理に明るいこと、またいわば「地球的な」思考をものにし、測地術にも専門家並みの知識を持っていたことなどは、伊能忠敬・間宮林蔵との交誼の中で培われてきた資質であろう。
江川家36代目英龍
江川英龍は、幼名を最初芳次郎といったが、これを改めて邦太郎を名乗った。江川家では、徳川家の代官職となってからは、当主が太郎左衛門の通称を受け継ぐようになった。英龍も、父英毅のあと代官職を継いでから、太郎左衛門を名乗った。江川家当主としては、家伝によれば家粗源頼親から数えて36代目となる。英龍が諱、号は坦庵である。字は九淵。後年、アメリカの民主主義を知ったあとは、庵号を民々亭とした。
英龍の描いた自画像が残っている。これを見ると、実に眼の大きな顔立ちで、意思の強さと、自らの先見性への自信と呼ぶべきものがその顔立ちにあらわれているように見える。成人しての身長は五尺七寸程(170㎝程)あったという。当時としては割合大柄な男であったようだ。
英龍の父親、英毅の時に財政が逼迫し、紀州徳川家の江戸屋敷に、御万の方の因縁を頼り、英毅の家臣望月鴻助が金子の借用を願うため独断で出向いたことがあったが、紀州家の家老安藤某にすげなく断れ、望月がこの恥辱に耐えきれず、嘆願書を残し割腹して果てた。この割腹死を知った紀州藩主徳川治富が、千両の貸付を了承した。英龍が満2歳の時である。
この鴻助の割腹事件を、英龍は幼いころから両親や家臣たちに繰り返し聞かされたことだろう。それは、英龍の生き方に影響を及ぼした。当主の座を継いだ後、英龍は奢侈を厳しく戒め、家臣や代官所の手付・手代にも、分不相応な生活を許さなかった。質素と倹約が家是であり、自分の衣服も礼服以外はみな木綿、冬でも袷一枚で通した。普段着用する袴はつぎはぎだらけだった。火鉢も使わず、客間以外の障子には反故紙を使った。畳も藁屑さえ出るようになるまで使い続けたという。




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