幸村人気の秘密
 ~人気者「真田」~
 


 日本一の人気大名真田家
真田という姓は、幸隆(綱)・昌幸・信之・信繁(幸村)ら著名な武将を輩出した信濃の名門武家の家名であることはもちろんだが、普通名詞にも使用される「広辞苑」の「真田」のところには「真田紐のように平たく編んだり織ったりしたもの」という説明があり、「真田紐」のところには「平たく組んだ木綿紐。真田昌幸が刀の柄に用いたところからの名という」という説明がある。この「真田」から派生した「真田虫」とか「麦藁真田」等という言葉もある。家名が普通名詞になる例では、ほかには「本多(ほんだまげ)」等の例もあるが、この言葉はすでに過去のものとなっているので、「真田」は日常用語として使用される稀有な例と言ってよい。このほか、「六文銭」「真田十勇士」「猿飛佐助」なども、多くの方が知っている言葉であろう。
真田一族では、やはり真田幸村の名が一番有名であろう。「真田三代記」の実質的な主人公は幸村であり、猿飛佐助・霧隠才蔵をはじめとする十勇士が幸村の家来である事は言うまでもない。しかし、歴史的には幸村は、父昌幸・兄信之に比べても、世間的には小さな存在に過ぎなかった。父兄はそれぞれひとかどの大名であり、しかも自らその手でその地位を築き、それを守り切った人物である。幸村は独立した大名になった事はない。壮年で禄を失い、高野山九度山村で長い浪人生活の末、大坂城に招かれ、落城の悲劇の中で奮闘して名を後世に残したというに過ぎない。その生涯の過半は闇の中にあるが、一瞬華やかに開いた華麗な花火のような人生でもあり、しかもその最期の花火の美しさのために、長く後代にその名を謳われるようになったのである。
 真田家が得た天の時と地の利
真田氏の武名が天下にとどろくようになったのは、その武勇の為だけではなく、いくつかの「好運」があった。その一つは、この一族の占めていた場所である。真田氏が畿内または九州・東北などの武士であったら決してこれだけの武名を勝ちえなかったであろう。真田の領土は東西の接点にある。徳川の大軍を二度にわたってその孤城に迎え撃って破ったのは、その居城が「東西の狭間」の要地を占めていたからである。
幸村は大軍勢を動員した大合戦で、優勢な敵軍の本陣を突き崩すという絶好の舞台を与えられた。武人としては本望だったはずである。
昌幸の長子信之は徳川家康に出仕し、徳川四天王の一人本多忠勝の娘を妻にして徳川の家臣となった。1歳違い(異説有?)の弟幸村は豊臣家の奉行大谷吉継の娘を妻にして豊臣家と強く結びついた。「東西に見ごろを分ける真田縞」という川柳があるが、「東西に見ごろを分ける」というのは、決して真田一族に限らない、信濃武士の一つの宿命であった。

東西の狭間にあった信濃
信濃は古代以来、東国に属してはいたが、その東国でも西端に位置する。鎌倉時代には北条氏が守護となり、諏訪氏・滋野氏はその家臣として勢力を伸ばした。南北朝時代には、これら北条の残党は、南党として北党の新守護小笠原氏や村上氏と対立する。室町時代には、小笠原氏は幕府の忠実な与党であったが、鎌倉府は小笠原氏と対立的な村上氏等をけしかけ、信濃をその支配下に置こうとした。滋野氏の根拠地東信濃は、幕府と鎌倉府の引っ張り合いになりがちの地であった。
昌幸の時代の真田家の立場も、まさに東西の狭間であった。昌幸が孤城に籠って徳川の大軍を迎え撃ったのも、実は秀吉が背後から徳川を脅かしていたからである。徳川軍が上田城攻略を諦めたのは、重臣石川数正が秀吉の許へ出仕したためで、真田氏が独力で徳川に長く対抗することは、事実上不可能であった。真田は小大名であるが、大勢力の間に挟まって、独立を保っていた。そのため、秀吉にとっても家康にとっても、また上杉や北条にも、それぞれ利用価値のある存在であった。現在の中間小政党みたいなものであろうか。
「真田三代記」が面白い理由の一つは、登場人物に恵まれていることである。秀吉・家康の両巨頭をはじめ、戦国の主だった武将が続々と登場する。小大名の真田を中にして諸勢力は渦巻いているのである。




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