忍術とは
 ~中国古代の兵法~
 


 中国兵法書
古代中国においては、紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃にかけての春秋時代に、孫武によって編纂された「孫子」をはじめ、唐代にいたるまでに「呉子」「六韜」「三略」「司馬法」「李衛公問対」等武経七書と呼ばれる兵法書が相次いで編纂された。これ以外にも多くの兵法書が編纂されており、古代中国では兵法が高度に発達していたといえる。それは、王朝の成立と存続が武力によって担保されていたからであり、異民族の脅威に常にさらされていた歴代王朝の宿命でもあった。
中国兵法書は、遅くても7世紀後半には日本に紹介されていたようである。「日本書紀」天智天皇10年(671)正月条によれば、百済人兵法者四人が渡来することになり、兵法が日本にもたらされたことがわかる。この兵法は百済独自の者ではなく、中国兵法ではないか。これに基づいて、北九州の山城も築城されたと考えられる。その後8世紀中頃には、入唐した吉備真備による儒学や天文学などと共に、「孫子」などが伝えられていることから、兵法も伝えられ、この兵法は藤原仲麻呂による新羅征討計画の際に用いられた。そして真備は、大宰府で「孫子」「九地篇」の講義も行っている。
  日本国内の戦争に利用息子
唐よりもたらされた兵法は日本国内での戦闘にも利用された。8世紀後半の桓武天皇の時の蝦夷征伐に際しても、勅書のなかで「孫子」作戦篇の文言が用いられていたり、源義家による後三年の役(1083~87)の際には、雁行の乱れを見て、かつて大江匡房から教わった兵法を思い出し、清原軍の伏兵がいることを察知したとされるが、これは「孫子」行軍篇の「鳥起者伏也」に基づいていることが明らかであり、兵法書の中でもとりわけ「孫子」が重視された。また寛平年間(889~897)に編纂された「日本国見在所目録」からは、「孫子兵法」「司馬法」「大公六韜」をはじめ「黄帝蚩尤兵法」「雲気兵法」など多様な兵法書が日本に紹介されて現存していたことがわかる。
しかし、常に異民族との闘いを意識しなくてはならなかった中国とは異なり、対外戦争を考慮する必要がほとんどなかった日本では、兵法の受容は一部にとどまり、実戦に用いられることは少なく、内容についても朝廷や幕府の一部で知られているのみで、部分的受容にとどまっていたようである。
  戦国時代息子
それが戦国時代になると、時代的要請により、中国の兵法書が尊ばれ、武経七書が読まれるようになる。美濃の守護代斎藤利永は「六韜」「三略」を極め、越前朝倉孝景は小姓たちに「論語」「六韜」などを学ばせている。
中国からの兵法は忍術書にも引き継がれており、「正忍記」「水鳥之教」には、忍びは鳥や獣にも目を配り、見つけられないようにしなければならないとして、以下のように記されている。
「城の廻り、切岸、石垣、難所の忍あるべき所には、水鳥、獣を見侍べし。事のさわがしきと、飛さると心を附よ。天に煙気をおふ、伏陰り有時は飛鳥是をさけ、星光を失ふ。かようの類を以て忍心を附。自ら能かくるる事を求よ。」




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