忍術とは ~中国古代の兵法~ |
中国兵法書は、遅くても7世紀後半には日本に紹介されていたようである。「日本書紀」天智天皇10年(671)正月条によれば、百済人兵法者四人が渡来することになり、兵法が日本にもたらされたことがわかる。この兵法は百済独自の者ではなく、中国兵法ではないか。これに基づいて、北九州の山城も築城されたと考えられる。その後8世紀中頃には、入唐した吉備真備による儒学や天文学などと共に、「孫子」などが伝えられていることから、兵法も伝えられ、この兵法は藤原仲麻呂による新羅征討計画の際に用いられた。そして真備は、大宰府で「孫子」「九地篇」の講義も行っている。
しかし、常に異民族との闘いを意識しなくてはならなかった中国とは異なり、対外戦争を考慮する必要がほとんどなかった日本では、兵法の受容は一部にとどまり、実戦に用いられることは少なく、内容についても朝廷や幕府の一部で知られているのみで、部分的受容にとどまっていたようである。
中国からの兵法は忍術書にも引き継がれており、「正忍記」「水鳥之教」には、忍びは鳥や獣にも目を配り、見つけられないようにしなければならないとして、以下のように記されている。 「城の廻り、切岸、石垣、難所の忍あるべき所には、水鳥、獣を見侍べし。事のさわがしきと、飛さると心を附よ。天に煙気をおふ、伏陰り有時は飛鳥是をさけ、星光を失ふ。かようの類を以て忍心を附。自ら能かくるる事を求よ。」 |