忍者の歴史 ~奈良・平安時代~ |
孝謙天皇の世は、橘氏の政権奪取を目論んだ橘奈良麻呂の変、道鏡がらみの不安定な政治が続いた。仏教の政治介入は、皇位を譲った淳仁天皇を引きずり下ろした孝謙が、藤原仲麻呂の乱を抑えるや、自ら称徳天皇を名乗って再び皇位に就き、道鏡に太政大臣禅師、次いで法皇、すなわち実質的な皇位を授けるまでにエスカレートした。しかしこの混乱は、宇佐八幡宮の神託により決着し、道鏡は左遷される。 奈良時代最後の光仁天皇の世は、飢饉や奥羽の蝦夷の乱が続き、桓武天皇の平安時代へと移った。この間、水面下で諜報謀略戦が激しく展開されたことは想像に難くなく、それは多くの陰謀が露見し、乱が未然に防がれたことからも推定できる。つまり奈良時代は、政治の中枢部で忍びの体系化がなされた時代といえる。 平安時代も、平安とは名ばかりの変乱の時代である。謀略はより巧妙かつ激しくなり、地方では国衙領と荘園との境界付近で土地に縛られない浮浪人、身軽で自由な芸能集団、そして杣(木を伐り出し、製材・輸送をする集団)など中世の忍びの源流たる「悪党」が誕生する。
東大寺は寺領拡大の政策を打ち出して、次々と開墾を続け、対する国衙領や興福寺との境界争いが頻発する。特に川が境界となっていた場合には、氾濫などで境界が移動して、争いが長引いた。東大寺第十五代別当・光智は寺領隆盛に長けた僧侶で、すでに天暦年間(947~953)に派手な境界争いを起こしている。その少し前に承平・天慶の乱があり、天暦3年(949)には京都に群盗が横行して清涼殿にまで押し入るなど、世情は極めて不安定であった。 鎌倉時代に成長した「黒田の悪党」は、伊賀忍者の母胎と考えて間違いないが、彼らが関与した「天喜事件」についてみていく。 これは、天喜元年(1053)に発生した国衙と東大寺との境界争いであり、東大寺はすでに浮浪者を杣工、そして戦闘集団へと育成しており、緒戦は国衙側が敗退した。翌年、国衙の大軍により黒田荘は抑えられたが、天喜4年には宇陀川の西全域が東大寺の「黒田本荘」として不輸不入の権が確立され、中央権力から独立した名張の気風が高まった。 権力に屈しないこの独立精神は、戦国時代の天正伊賀の乱まで保たれ、伊賀国や甲賀郡は土豪の連合体として、伊賀惣国一揆、甲賀郡中惣へと発達していった。群小土豪に正規軍との戦闘は望めないため、諜報・謀略、そしてゲリラ戦が基本戦術であった。
義経が、子供の頃から目的や主義・哲学を持ち、技や兵法の大家について一心不乱の山岳での修行の末、相当な忍術の使い手になったといのは十分に納得できるものである。源平合戦においても、多くの事績がそれを物語っている。 寿永3年(1184)の一の谷の合戦では、義経は忍び3人を放ち、彼らの情報から鵯越えを突破口にするのが良いとの結論を得ている。 義経四天王の一人、伊勢三郎義盛の存在も見逃せない。義盛は「よしもり百首」で知られる忍びで、「伊水温故」には、「勢州三重生る、漸成生して焼石小六と名付、鈴鹿山に強盗して世を渡る云々」とある。 伊賀の忍びの代表格は服部氏である。山口県下関市の赤間神宮には、寿永4年の壇ノ浦の合戦で没した伊賀(服部)平内左衛門家長の塚がある。しかし、家長は生還して伊賀国予野(伊賀市)に隠棲したという伝説もある。 平安時代は、忍びが奈良時代と同質の変乱に翻弄され、さらに源平合戦で揉まれて大きく成長した時代である。言い換えれば、中世に移行する平安末期に古流忍術の基礎が形成され、本格的な合戦と混乱のもとで、忍術が体系化され始めたのである。 |