忍者の歴史
 ~飛鳥時代~
 


 大陸から伝わった
「忍術」という言葉は、楠流忍術伝書「正忍記」に記された「夫れ忍兵の術たるや、其の来る事尚し」の「忍兵の術」に由来する。この一節から、「忍者とは何らかの形で組織に属した忍びの兵であり、忍びの術を使い、技を磨いた忍びの技術者でる」ということが理解できる。
さらに「其の(忍術)来る事尚し」の「来る」とは、「漢の国より来る」である。紀元前500年ころ、呉王・闔閭に仕えた兵法家・孫武の「孫子」に「間(かん)」つまり間諜を用いる方法「用間」が記されており、五種の「間」についての解説がある。
「間」は「敵の間隙に諜報活動をしかける」に由来し、紀元前91年ころに完成した司馬遷の「史記」に「謹烽火 多間謀」に記載がある。
「正忍記」では五種の「間」を「是を日本の忍びと名づく」としているが、一般に忍者といえば、そのうちの「天生の間」すなわち「天が生んだように優秀で、生きて還れる」忍びを意味する。生還の技術こそ、究極の忍術である。
そして日本に「来る事尚し」とは、古くは「日本書紀」推古天皇9年(601)条に「秋九月の辛巳の朔戌子(8日)に新羅の間諜の者迦摩多、対馬に到れり。即ち捕へて奉る。上野に流す」とある。当時、任那日本府の復権を策していた大和朝廷は、推古8年に境部臣を大将軍とする兵を朝鮮に送って新羅軍と戦い、さらに翌年にも厩戸皇子(聖徳太子)の弟・来目皇子を将軍とする2万5千の遠視軍を組織する等、大陸と緊迫した関係が続いていた。そういうわけで新羅間諜の日本潜入も当然あった。
国内では、聖徳太子が大伴細人なる人物を「志能便(しのび)」と呼んで、物部守屋の動静を探らせており、守屋討伐後は蘇我氏の動静も探らせていたはずである。忍びは「細作」ともいい、細人は細作に由来する可能性もある。
  大和政権による忍び対策息子
645年、中大兄皇子・中臣鎌足らによる蘇我入鹿殺害、蘇我蝦夷自害、孝徳天皇測位という乙巳の変により、大化の改新が完成する。その中で軍政の整備も行われた。
662年5月、中大兄皇子は唐・新羅連合軍の百済侵攻に対して、その救援に安曇比羅夫指揮下の軍船170隻を派兵。翌年3月には上毛野君稚子ら2万7千が沙鼻城、岐奴江城を落としたが、8月に白村江で比羅夫の水軍が唐の水軍に致命的な大敗を喫してしまい、それがきっかけで百済が崩壊してしまう。
以降、大和政権は守勢に回り、中大兄皇子は防人を対馬・壱岐・筑紫・長門・安芸などに配置して沿岸警備を強化した。注目すべきは烽火で、ここに物見斥候の忍びと信号とのかかわりが始まる。
中大兄皇子は唐の狼煙制を模倣し、30里(約20キロ)間隔に烽火台を置き、数人を張り付けて監視に当たらせた。生駒山、春日山などの狼煙場は古歌にも出てくる風景である。
狼煙台には高さ5ⅿの円錐台形の煙突が4本置かれ、その下にある烏鷺窯の中で草木や狼の糞に火をつけて煙を出し、夜は藁で束ねた高さ約2.4ⅿ、周囲60㎝ほどの松明に火をつけ、炬火信号とした。
まだ火薬は発明されていないが、後世の忍びは信号利用に熟練しており、狼煙は早期から取り入れて改良を重ね、火薬を含めた何種類もの狼煙を用意している。
忍びが火術に長じたのは、こうした狼煙の使用にも理由が求められる。飛火矢、鉄砲、爆薬、地雷などがまさにそうである。のろしのことを「狼煙」と書くのは、狼の糞を燃やすと煙が良く出たからであろうし、江戸時代には狼の代わりに鼠の糞が使用されている。近世に成立した「萬川集会」にも種々の狼煙法が書かれている。
  山岳修験息子
その後は、大海人皇子が672年の皇位継承戦争の壬申の乱で使った「多胡弥」という忍びが見られる。彼は情報戦だけではなく、積極的に敵陣に潜入し、火を放ったり、夜討ちを敢行したりして、奮戦目覚ましかったという。飛鳥時代は仏教こそ伝来したものの、陰謀と変乱が続き、決して穏やかな時代ではなかった。
この時代で特筆すべきは、山岳修験の祖・役小角(役行者)の誕生と山岳での修業である。彼は舒明天皇6年(634)頃に生まれ、仏教を修行。さらに「孔雀王呪経」を信奉し、不動明王の導きによって蔵王権現を本尊として、奈良盆地の西にそびえる葛城山で30年間修業を続けたという。
小角は金剛・葛城山地、二上山、高野山、箕面山など近畿の山々はもとより、富士山をはじめとする名だたる高山を走り抜け、最後は大和の霊峰・大峰山を行場としたという。
「孔雀王呪経」は仙術であり、唱えると神通飛行自在力を発揮できるという。仏教も例外ではないが、呪術的な宗教が奇跡を生むことができるのは、他者催眠と自己催眠との混合による結果である。
日本固有の山岳修験が密教と結びつき、山岳修業は呪術のみならず、金剛杖の杖術、剣術、遠見、観測、観天望、薬法へと発展し、また軽快な重心移動が体術(柔術)の身のこなしの原点を会得させ、情報・謀略のネットワークなどが形成された。呪術や情報は、修験者と中央・地方の権力者との結合をごく自然に約束した。
飛鳥時代は、忍びの各種要員が統合されはじめた時代であったといえる。




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