大陸軍の戦略・戦術
1、比類なきリーダーシップ
~天才的軍事思想~
 

 フランス革命の申し子
ナポレオンの戦いは、その目的や様相においても多様であり、しかも時代とともに変化している。
①、国内の反革命勢力から革命を守った革命防衛戦争
②、フランス革命に干渉し、フランスへ進攻した外敵に対する革命防衛戦争
③、独裁君主の圧政に苦しむ欧州諸国に対する革命の輸出と自由解放支援戦争
④、ナポレオン帝国の拡大を図った侵略征服戦争
それらの戦争を誘発したフランス革命自体もまた、左右に変化し、複雑多様である。
絶対王政から立憲王政へ、さらに穏健共和制(ジロンド党)あるいは急進共和制(ジャコバン党)へと左右に揺れ動き、その中には共産革命を目指す危険なグループ(バブーフ党)さえ潜在していた。「フランス革命の中にはスターリンの先駆者がいた」と、主張する史家がいるほどである。
ここで注目すべきは、そのフランス革命を通じ、ナポレオンが軍人として、政治と軍事の接点に早くから関係していたことである。無名のナポレオンが、軍の中で注目を浴びたのはトゥーロンの戦い(1793年)であるが、フランスの中央政界で有名を馳せたのは、パリ西部のヴァンデミエール反乱(1795)を鎮圧し、革命を王党派の反革命の危機から守った将軍としてである。
内乱鎮圧の指揮は、野戦にない難しさがある。民衆や政治家の動向を見極める政治的判断と情勢の変化に対応する柔軟性が必要である。同じ国民同士の争いだけに、武器の使用が制限される。反面、叛徒に対する優柔不断はかえって反乱を大きくし、長引かせ、犠牲者を多くする。そうさせないためには、民衆を味方にしつつ叛徒を断固制圧する大局的判断が必要である。
そのとき、ナポレオンは銃剣を持つ数千人の叛徒に対し、慎重に警告を発したのち、正確な砲撃を断行し、最小限の犠牲で反乱の鎮圧に成功した。フランス革命は防衛された。
 指揮統率術に長ける
ナポレオンが将軍として世に出たのが、単なる軍事作戦の野戦将軍としてではなく、政治にかかわりの深い反乱鎮圧将軍、それも首都パリの治安回復者としてであることの意味は大きい。その体験を通じ、ナポレオンは政治の世界のノウハウを知り、4年後のブリュメールのクーデター(1799年11月)で、政治権力を握り、軍事と政治の両世界の大指導者、マルチリーダーへの道を歩む。
「指揮統率術は戦争術の半分以上を占める」といったのは、ナポレオンである。
さらに彼は、「ガリアを征服したのは、ローマ軍ではなくカエサルである。インドまで遠征したのはマケドニア軍ではなくアレキサンダー大王である。プロイセンを守り抜いたのはプロイセン軍ではなく、フリードリッヒ大王である」と看破している。多少、我田引水めいた見方ではあるが、当時の戦争様相やフランス軍の実情を思えば、戦争と指揮官の関係について鋭い真実を含んでいる。
ナポレオン戦争史を大観するに、その勝利は、新兵器や新しい兵制、あるいは兵器や兵員の優越によるよりも、むしろ、それらを巧みに運用した戦略戦術と指揮統率の妙による勝利が多い。すなわち、造兵(兵器・兵員の整備)の優位よりも、練兵(教育・訓練)と用兵(兵力の運用)の優位による勝利である。ナポレオンは、既存の兵機と徴兵制による兵士を巧みに結び付け、教育訓練(練兵)により実戦力化し、それを独創的な戦略戦術をもって運用(用兵)する優れた「ソフトメーカー」であった。
 先制主導に優れる
当時、ナポレオン軍の兵器は、オーストリア軍やプロイセン軍のものとほぼ同じである。
フランス軍の小銃は1777年式のシャルルヴィル小銃(火打ち石式滑腔銃)で、口径は17.5ミリ、実用有効射程は約100ⅿ、射撃速度は普通の兵士が1分間に鉛の丸弾を二発、命中精度は100ⅿの距離にいる立姿の敵兵に対し、三発に一発の割合である。後装式(元込め式)の新式銃の導入が始まったのは、ナポレオン戦争の末期であった。
大砲の製造も彼我に大差はない。有効射程は約800ⅿ、しかし、ナポレオンが砲架や砲車を熱心に改良させたので、機動力において敵の砲兵に勝っていた。彼は、小銃の射撃統制にラッパの吹奏を実用化して、過早射撃の防止を図った。また、銃剣を多量に装備させ、射撃の他に馬上の将兵を刺殺できる兵器として実用化した。それは、後に世界中の軍隊に普及する。
当時、フランスの兵制は、革命の結果傭兵制から徴兵制に変わり、若い兵士を数多く徴兵することが可能であった。彼ら召集兵の戦技能力は未熟だったが、愛国心に富み、士気が高かった。貴族出身の将校の多くが外国に亡命したため、上級将校は不足していたが、実兵指揮の上手な下士官出身の下級将校が多くいた。
ナポレオンは、革命に伴う軍制上の変化としての徴兵制と師団編成を最大限に生かし、それを戦場において見事に実用化した。優れた軍政家カルノーが発想し、制度化した師団編成は、歩兵の白兵化、騎兵の機動力、砲兵の火力、つまり「歩騎砲」を根幹とする、機動性と独立作戦能力に優れた戦略単位部隊であった。ナポレオンはその長所を生かし、短所を補い、効果的にシステム化して、師団を運用した。
徴兵で集めた即製の兵士に、熟練を要する従来型の横隊戦術は無理である。そこで、一部を散兵として前方に出し、小銃射撃をさせ、主力は軌道が容易なように縦隊で行動し、戦機を捕捉あるいは作為して、決定的な時期に兵力を集中し、敵を撃破する。世に言うナポレオンの散兵縦隊戦術である。さらに彼は、引き続き追撃を敢行し、その軍事的勝利を背景に、政治的に有利な条件で敵に講和を強要し、外交的勝利に結び付けた。
作戦において、彼が常に追求したのは、先制主導である。
「敵はかくする。故に我はこう対応する」ではなく、「我はかくする。故に敵をしてかくせしめる」ことを主眼に作戦を指導した。敵の選択肢を狭め、敵を誘致導入して窮地に陥れる高等戦術である。
「計画はゆっくりと集権的に。実施は素早く分権的に」そして「計画は悲観的に、実行は楽観的に」行うことを部下の将軍たちに求め、彼自身それを実践垂範した。
ナポレオンの非凡さは、何事も常に先行的かつ長期的に考え、平素から準備しておくことにあった。
第一次北イタリア作戦(1796年)に先立ち、ナポレオンはその計画の私案を早くから作成し、総裁政府の有力者バラスやカルノーに提示している。ナポレオンが、北イタリア方面司令官に推挙された背景には、その作戦計画の緻密さと独創性があった。




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