大陸軍の戦略・戦術
1、比類なきリーダーシップ
~国際性に富む政・戦略~
 

 ナポレオンの原点
ナポレオンは、将兵の心と体を動かす限りない魅力と魔力を持っていた。
軍事指揮官としての彼の優れた資質は、総合判断力と重点集中力、そして変化への対応力にあった。戦争指導者としてのナポレオンの偉大さは、あらゆるものを戦力化する能力、戦術的勝利を戦略的勝利に、軍事的勝利を政治的勝利に結びつける才能、さらに、目的と手段、効率性と安全性を調和させるバランス感覚にあった。
しかし、政・戦両略、和戦両様にわたるナポレオンのリーダーシップも、スペイン出兵、ロシア遠征の頃から次第に失われていく。その背景には、知力、体力、気力の衰えとともに、自己過信と目標過大があり、情勢の誤認と錯誤があった。さらに異質な地形風土(スペイン・ロシア)の異質な敵(ゲリラ)の能力と意思に対する誤断があり、情勢の変化の対応不足があった。それがナポレオン軍を次第に苦境へと導いてしまった。
パリのエッフェル塔の脚下に広がるシャン・ド・マルス公園に面するエコール・ミリテールは、かつてナポレオンが在学した王立士官学校の所在地である。現在はフランスの陸海空軍の各大学や高等国防研究所になっている。ここで若きナポレオンは、戦術や砲術を実習し、馬術の修練に励んだ。いわば天才軍人ナポレオンの原点である。
エコール・ミリテールの大練兵所は、後に皇帝となったナポレオンが閲兵を行い、士気を鼓舞した場所でもある。彼が創った閲兵・巡閲の様式は、のち世界に広まり、今も観閲式等の原型として生きている。
 多種多様な戦争を戦う
将軍あるいは皇帝としてのナポレオンほど、多種多様な戦争を戦ったものは、世界史上稀である。
戦争の目的、作戦の様相、戦場の地形・気象、相手にした敵軍の多さ、そしてナポレオンが指揮した大陸軍の規模において、まさしくそうである。
第一次対仏同盟(1793~97年)から第七次対仏同盟(1815年)の間、ナポレオンが戦った外国軍は、イギリス・オーストリア・オランダ・ロシア・プロイセン・スペイン・ポルトガル・スウェーデン・トルコなど、主要国だけでも延べ九ヶ国にのぼる。
これらの敵に対するナポレオンの大陸軍も国際的な多国籍軍であった。1812年のモスクワ遠征時、ナポレオンが動員した全兵力は約60万、そのうちロシアに侵攻した兵力は約50万であるが、フランス人はその三分の一で、三分の二はプロイセン人を含むドイツ人、ポーランド人、オーストリア人、イタリア人、スイス人、その他の外国人であった。
ナポレオン麾下の将軍たちも国際性が豊かで、外国系の出身が多いのが特色である。ネイ将軍はザール地方生まれのドイツ系、マッセナ将軍はイタリア系、マクドナルド将軍はイギリス系、デュポン将軍はイギリス系、ポニアトフスキー将軍はポーランド系である。
 「戦争論」にその名を遺す
多国籍軍や外国系の将軍たちを指揮し、多くの外国の連合軍を相手に戦ったナポレオンのリーダーシップも、おのずから国際性に富み、またその戦略・戦術も、敵連合軍に対応する如く多種多様である。
敵連合軍の弱点は、外国軍と外国軍の連接部や連携行動時に生じる。ナポレオンはその弱点を看破し、そこを巧みに攻撃し、分断、各個撃破した。
約百年後の第一次大戦時、連合軍司令官として活躍したフランスの名将フォシュ元帥は、その回想録にいみじくも書いている。
「第一次大戦時、連合軍司令官として多くの国の軍隊を指揮した経験を通じ、第一次から第七次にわたる対仏同盟軍と戦ったナポレオンの指揮統率の実態や秘密、原点や盲点を知ることができた。」
「ナポレオンの指揮統率や戦略戦術には、国家や時代を超えた普遍性がある。現代に通じる多くの教訓がある。そしてその普遍性は彼が戦った戦争の多様性、敵軍の国際性、戦場の地形の多面性に由来する」
そのナポレオン戦争を体系的に研究し、理論化した人物が、古典的名著「戦争論」の著者クラウゼヴィッツである。若くしてプロイセン軍に入り、参謀シャルンホストに仕えた彼は、数多くのナポレオン戦争に参加し、捕虜生活をフランスで体験している。ナポレオンのモスクワ遠征では、ロシア軍の中佐参謀としてリガ要塞の防衛線に参加、3年後のワーテルローの戦いでは、プロイセン軍司令官ブリュッヘル麾下の第三軍団長ティマ―ルマンの参謀長として、ナポレオン軍と戦った。
その名著「戦争論」は、戦後、12年間にわたる士官学校在職中に執筆したもので、彼の病没後、マリー夫人により編集、刊行された。
クラウゼヴィッツの「戦争論」は、その普遍性と汎用性ゆえに、時代と国を超え、今も多くの政・軍関係者によって読まれ、研究されている。しかし、それを深く理解し、研究するためには、ナポレオンの指揮統率や戦略戦術を含むナポレオン戦争それ自体をよく研究する必要がある。




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