ドキュメント島津斉彬 
~傑物なり斉彬~
 


 鹿児島の近代化
「これはまたどうしたことか。通行人の激しいこと。岩石で築かれた波止場、無数の銃眼、最後に泊地に投錨した汽船までも眼に映って、鹿児島は我々が想像していたような小さな田舎町ではなく、人口四、五十万人を算える日本国中の大都市の一つであることを知った我々の驚きといったらなかった。鹿児島の備えはいき届いている。そうして時勢に遥かに先んじている主君の統治下にあるのだ」
安政5年(1858)長崎海軍伝習所の練習船で鹿児島を訪れたカッテンディーケは、鹿児島の印象をこう記した。安政5年といえば、斉彬が急死するその年である。鹿児島の近代化はすでに斉彬の曽祖父重豪の時期に開始されているのだが、斉彬の眼にはまだまだと映っていたに違いない。
斉彬はオランダ語を話すことはできないが、読み書きなら十分にこなせた。伊藤玄朴・川本幸民・箕作阮甫・高野長英などの江戸一流の学者で身辺を固め、実用的な西洋の科学と文明の吸収に努めていた。それも、ただのお殿様のお楽しみと言ったレベルではない。斉彬自身が当代きっての科学者だったのだ。それも、ただの学者にあらず。鹿児島の集成館を中心とする一大工場群の創始者と経営者との三つの立場を兼ねていたのである。
 多忙すぎて不眠症に
これほど多忙な日常を送った大名というのも珍しいであろう。
「一寸もただ居られることはない、というのではないが、夜分も昼も、夜分は御奥におられても何か書き物でござります。だいたい十時が引け、その間は書き詰め、私に製本をせよといって・・・」(三原経備の談話)
実務を確実に処理していくというより、次から次へと湧いてくるインスピレーションにとりつかれて文書を書いているような姿を想像すればよい。
この三原という人の回想によると、斉彬は酷い不眠症に悩まされたことがある。少しくらいの不安や緊張で不眠症になるような脆弱な人間ではなかったはずだ。次々とインスピレーションを追いかけていく興奮を抑えきれなくなった結果の不眠症だったと思われる。
斉彬には、自分が今、世界史の課題に直面しているという鮮明な思いがあったに違いない。
先のカッテンディーゲの回想によると、鹿児島には産業革命の本拠地ロンドンと同じ程度の機械や設備が備えられていたようである。斉彬は鹿児島をロンドンのような近代産業都市に育てようと決意し、その生家がオランダ人カッテンディーゲによって確認された事実があるのだ。
 日本全土を近代化したい
しかし、当然ではあるが鹿児島はロンドンではない。それは、近代産業の規模の違いということではなく、産業を支える政治の問題であった。
近代産業を保証するのは、良質かつ大量の労働力である。これは、国民教育による均質の労働力とも言い換えられるが、この点で鹿児島はロンドンの足元にも及ばない。日本全体のレベルは、鹿児島よりもっと低いと言わざるを得ない。斉彬が熟知している科学の分野がいかに発展しても、この問題は解決できない。政治と文化が決定することである。つまり、政治を変えなければならないのである。
科学文明の分野は、政治に比べたらまだ容易であるといえる。政治の事は、いわば魔物である。図面というものなどないし、図面通りにやったとしてもうまくいくとは限らないのだ。
しかし斉彬には、政治の世界に入っていって、課題に挑戦するのに充分な覇気を持っていた。調所広郷を失脚させて父斉興の引退を早めた手腕に、覇気と能力のほんの一部を垣間見せたのである。




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