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ドキュメント島津斉彬 ~斉彬登場~ |
斉彬はむしろ、薩摩に乗り込んできた人物だともいえる。彼は、産業革命以後のヨーロッパの機械文明とその思想を薩摩に持ち込んできた。いや、薩摩だけでなく、日本中にともいえるかもしれない。近代産業革命が起こり、帝国主義によって欧米列強が進出する19世紀、日本国はどのように処すればよいのか、斉彬の生きた時代は、こういう時代であった。 斉彬はこの課題にいち早く察知し、課題以上のものをもって反応しようとした人物である。生田者人物が現れた幕末日本だが、彼ほど巨星という言葉が似合う人物はいない。そのような人物はそうめったには表れないが、斉彬はまさに巨星であった。
天保13年(1842)イギリスは清国と南京条約を結んだ。アヘン戦争の後始末は、香港を割譲し、広東など五港を開くという屈辱的な不平等条約であった。欧米諸国、とくにイギリスが老大国の清国に侵略の牙をむいていることは、早くから日本の識者を刺激していた。清国さえ敗れるほどの軍事力の前に日本が安全である保証はどこにもない―こういう認識は必然的に、鎖国をどうするかという問題に行き着く。 南京条約締結の3年前、天保10年(1839)幕府は洋学者のグループ、尚歯会に弾圧を加えた。事の起こりは2年前のモリソン号事件。アメリカの汽船モリソン号が、マカオで救助された7人の日本人を乗せ、通商を求めて浦賀にやってきた。浦賀奉行は異国船打払令に基づく砲撃で追い返し、次の寄港地鹿児島でも砲撃したため、モリソン号はマカオへ帰ってしまった。 このことは、外国に関心を持つ洋学者にショックを与えた。幕府の方針は、今後同じことが起きたら同様に打ち返すと決定したという情報も伝わって、諸外国の間には「日本は不義不仁の国である」という風評が広まってしまうとの認識が深まった。 それから3年後に南京条約締結のニュースが伝わったため、識者の間に攘夷論が起こったのも当然である。さらに嘉永6年(1853)のペリー来航で、攘夷論に火をつけた。攘夷論の高まりの中で幕府は部分的に鎖国を解いた。通商が始まると、貧弱な日本経済は混乱に陥った。攘夷論が民衆の心と一体となったのはこれが理由だ。攘夷派の志士たちは血の滲むような苦難の果てにやがて開国論に転じるのだが、攘夷論は将来への展望が持てないという深刻な壁にぶち当たったのだ。
斉彬は開国派なのだが、そもそも彼について、攘夷とか開国とかの区別を云々するのは全く意味がない。 斉彬は、すでに薩摩という大藩を開国していたのだ。 さらに斉彬は、日本全体を薩摩のように開国してしまおうと思っていたに違いない。 斉彬が藩主の座に就いたのは嘉永4年(1851)42歳の時である。江戸の政界において、斉彬の聡明さと識見の高さは有名であった。にもかかわらず、42歳の高齢まで藩主の座に就けなかったのは、父斉興が愛妾お由羅の生んだ久光を藩主にしようとして、なかなか引退しなかったのである。いわゆるお由羅騒動がここに勃発してしまう。 斉彬は、父斉興を引退に追い込む複雑な政治工作の過程で、幕府老中首座阿部正弘との固い提携を結んだ。阿部は、鹿児島に展開されている近代化への大規模な政策と、琉球を拠点とする東南アジア貿易に強い関心を持っていた。彼の優秀な頭脳は、鹿児島で行われている様々な施策の中に、日本全体をその方向に導いていくべきモデルが示されているとみていた。 薩摩の東南アジア貿易は密貿易である。だが幕府がそれを知らぬわけではなく、暗黙の了解のもとに行われていた。現実にはその貿易量は、その暗黙の了解を遥かに超えているものがあって、そのこともまた幕府には知られていた。了解基準を超える部分が、薩摩を牽制する幕府の政治力になっている、という構造だ。 しかし、このために薩摩が幕府に頭を上げられない環境になっていあかというと、そうではない。斉彬の襲封を妨げていたのは父斉興だが、斉彬は、父の懐刀として財政改革に抜群の腕を振るった調所広郷を失脚させることで父の勢力基盤を削ごうとした。斉彬は、了解基準を超える密貿易が調所の指示で行われいていることを阿部に告げ、阿部が調所を詰問して自殺に追い込んだのである。 だが、その後襲封した斉彬が密貿易をやれない状況になってしまったかといえばそうではない。斉彬は、調所時代にも増して大規模な密貿易を展開し、それを以て阿部との連携を固めていく基盤としたのだ。 |