ナポレオンの内政 1.官僚制の拡充と貴族制の復活 ~地方行政~ |
社会上昇という点から捉えるならば、県知事は、革命前のシュブデレゲ(国王監察官の補佐をして、王国賦役の実施や、キャピタンオン=臨時税の税徴収などを遂行する)や、国王裁判所であったバイヤージュの判事・検事層・革命期になってからの県総代、総裁政府中央委員、それに帝政期には参事官陪席官などからの任用が多かった。明らかに管轄域の広がりを示し、また一方は国王の「再委任権」に基づく下僚としてのシュブデレゲから、郡長を指揮する「県の第一人者」知事への転進は、明確な出世を意味した。 県知事の場合、やはり内務大臣で皇弟のリュリアンを通しての次官ブーニュによる推薦や、第二統領カンバセレスや、第三統領ルブラン、元老院議員、大臣、参事官などの推挙に追うところが大きく、この点でネポティズム(縁故主義)の色彩がつきまとっている。 たとえば、カンバセルスはガール県など南仏九県の知事に、かつてのモンペリエ会計検査院評定官時代の縁故者を推挙し、ナポレオンに認めさせている。国王監察官と異なる点は、ナポレオンの官職理念が、まさに軍事だけでなく、国内行政でも有能者の発掘という近代メリトクラシー原理(実力社会、エリート支配層)に沿ったものであったし、彼への忠誠は国家への忠誠に置き換えられたのである。国家の代表であり、かつ県の代表でもあるという規定がすべてを物語っている。
その中で最大の問題となるのは、国有財産の取得を巡る紛議で、総裁政府期から持ち越されたものであった。これは県庁の狭い事務サイドの書類だけに基づき判決されるべきではなく、専門の司法機関を持つべきである、との考えに基づいていた。長い間、「司法の独立」を主張し、司法行政をしきっていた高等法院の弊害が思いおこされたが、さりとて行政機関への司法権の帰属という絶対王政期にとなえられた、もう一つの極端な考えとの間で、革命は最終的には中間の道を選び取ったといえよう。「フランス型権力の分立」といわれるゆえんである。 |