大陸軍の戦略・戦術
3、機略縦横の用兵
~戦闘隊形の特徴~
 

 オーダーミックスにおける戦闘隊形
フランス軍は1793年以降ギベールの考案したオーダーミックスを採用したが、それは縦隊・横隊・散兵の結合であった。その戦闘隊形は、一個連隊は三個大隊(一個大隊は八個中隊)から成り、各大隊から一個中隊の割合で散兵を前面に展開し、一個中隊を擲弾兵として後方に置く。その他の六個中隊から成る一個大隊は横隊に展開し、残りの二個大隊は各々正面二個中隊・縦深三個中隊の縦隊を形成する。この中で散兵の援護下に行進縦隊から横隊または攻撃縦隊へ隊形変換したが、これは、散兵の掩護・攪乱と横隊の火力及び縦隊の衝撃力を兼備した画期的な隊形であった。
これに対してオーストリアとロシアも多数の散兵を保有していたが、彼らはフリードリヒ型の密集隊形で、正確な運動と一斉射撃に頼り続け、軽歩兵を狙撃兵として補助的なものとみなしていたため、フランス軍に比べて柔軟性に欠け、隊形変換時に攻撃を受けて大きな損害を出した。
 大隊方陣
大隊方陣とはナポレオンが軍団に取らせた戦闘隊形であり、各軍団を縦列または四辺形の隊形で行進させ、敵と接触した時は迅速に戦闘に移行した。この時先頭の軍団と後続の軍団の感覚は一日の行程であり、戦闘の軍団が敵と接触してから24時間で後続の軍団が救援に到着できる仕組みであった。
また、各軍団は独立戦闘能力があるため24時間は単独で敵を拘束でき、行進方向を迅速に突破できた。このため先頭の軍団をおとりにして使用したり、攻撃奉公の欺騙も可能であった。
1806年のイエナの戦いでは、18万の軍を大隊方陣として各二個軍団からなる三個縦隊に編成し、30~40マイルの戦線幅で相互支援できるよう近接して配置した。この時はプロイセン軍が先頭の軍団を孤軍とみなして戦闘隊形に移行したが、先頭の軍団が敵と接触してから24時間で後続の軍団が到着してプロイセン軍を撃破できた。
しかし、これは優秀な指揮官の存在と軍団の機動が可能な、広く良好な道路幅が不可欠であり、道路が貧弱で大部隊の機動が困難か、また敵がナポレオンの機動に対抗できる戦術を確立した時は、大隊方陣で敵を罠に仕掛けることができなくなった。

 攻撃縦隊
縦隊には行進・攻撃縦隊があるが、行進縦隊が正面が狭くて縦深が深い隊形である一方、攻撃縦隊は正面が縦深より広い隊形を取った。これは、突撃時における敵の射撃や砲撃での損害を軽減し、努めて多くの敵を正面に拘束し、敵が翼面に回らないようにするためであった。
しかし、山岳戦や市街戦など、部隊を広く展開できない場合は、行進縦隊と攻撃縦隊が同一となった。そして、このような縦隊の戦術的価値は戦場での大部隊の迅速な機動と様々な隊形への容易な変換にあった。
これは特に1807年以降、死傷者の増大に伴う新兵や外国兵の徴集により訓練練度が低下したため、複雑な横隊よりも重視されるようになり、縦隊を並列・悌隊したり、また楔型や中空の正方形を取った。しかし、巨大な縦隊は柔軟性を失い、戦闘中の隊形変換ができなくなった。
特にワグラムの戦闘では、マクドナルド軍団の攻撃縦隊は中空の正方形をとり、四個の横隊に縦深が二列の八個大隊で形成され、右翼に八個大隊・左翼に四個大隊の縦隊を置いた。この正方形の後方に縦隊の三個大隊が並列し、8千名が正面1200ヤード・縦深750ヤードに展開していた。しかし、この巨大な攻撃縦隊は柔軟性に欠け、兵力の割には敵を撃破できずに、逆に救援を必要とした。
また、縦隊は戦闘展開するとき、その一部が散兵となり、散兵が敵部隊を混乱したり主力の戦闘展開を掩護した後に縦隊となって攻撃を続行した。しかし、1807年以後は敵も横隊の前面に散兵を展開させたため、散兵が敵の横隊を攪乱する力は無くなり、この役目を砲兵が引き継がねばならなかった。このため、ナポレオンは散兵を重視しなくなり、攻撃縦隊への傾斜を深めた。特に、1809年以降になると練度の高い兵士の死傷が増大し、攻撃縦隊を連結させた巨大縦隊が出現したが、単純な隊形である反面、柔軟な機動が困難となり、翼側包囲の戦術がとりにくくなり、正面攻撃の多用が死傷者を増大させた。
このようにナポレオン戦争において登場したオーダーミックスは、死傷者の増大と新兵や外国兵の徴集に伴う訓練練度の低下による巨大縦隊の登場により大きく変化したが、戦闘隊形の変化は死傷者を増大させるのみで、決定的勝利を得ることがもはや困難になったのである。




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