大陸軍の戦略・戦術 2、勝利への戦略五原則 ~1805~6年の戦役~ |
すなわち、広域正面に分散配置された麾下軍団がナポレオンの持つ網である。これを「えいや」と敵軍に投げかけ、包囲し、殲滅し、再び網を広げて次なる敵へ向かうのが、ナポレオンの必勝パターンである。 そしてこれが最も見事に実現されたのが1805~6年の一連の戦役であり、ここではナポレオンの戦略原則の全てが満たされていた。事実、ナポレオンの赫々たる戦果として喧伝される戦勝の多くが、この期間にもたらされている。ウルム、アウステルリッツ、イエナ、アウェルシュタットなどである。
1805年9月、イギリス、ロシア、オーストリアによる第三次対仏大同盟が結成されると、ナポレオンは大陸軍をライン方面へ展開させた。ライン河に沿って、北方よりマインツに第二軍団(マルモン:2万)、マンハイムに第三軍団(ダヴ―:2万5千)、スパイエルスに第四軍団(スールト:3万7千)、プフォルツに第六軍団(ネイ:2万4500)、ストラスブルクに第五軍団(ランヌ:1万6千)が100マイルの広がりを持って配され、9月25日に一斉にラインを渡って進撃を開始した。またライン東岸のナッソウ公国に第一軍団(ベルナドット:1万4700)があり、これもフランクフルト方面へ南下を始める。さらに北イタリアにマッセナ率いる5万の兵力があった。 このときオーストリア軍は3集団に分かれており、ウルムを中心にフェルディナント公とマック元帥の7万2千、インスブルックにヨハン大公の2万2千、北イタリアにカルル大公の9万4千が布陣していた。 ② 釘付け部隊 オーストリア軍の主力は、数から見てもカルル大公の9万4千の兵力であり、これが北イタリアを横断してフランス本国へ侵入し、ナポレオンの背後を脅かすとともに、残りは東より来援しつつあるおよそ10万のロシア軍と合流して正面より攻撃をかける作戦であった。 ナポレオンはロシア軍がいまだウィーンから北東に離れること200マイル以上にあり、またオーストリア軍の半ばが北イタリアにある事に目を付ける。マッセナ軍は戦略的な「釘付け部隊」としての役割を担い、カルル大公の注意を引き付ける。 その一方、ドイツの作戦域においては、シュヴァルツヴァルト森林地帯近辺にミュラー騎兵団を運動させ、マック元帥を陽動した。マック元帥はこの方面からフランス軍主力の攻勢があるものと信じたが、真の脅威は北から降ってきたのである。 ③ オーストリア軍壊滅 10月6日にはスールトがミュンスターを占領し他の諸軍団もこの方面に進路を向けて南下。各軍団は10日間で100マイル以上を踏破するという急速行軍を行って、ミュンスター近郊でダニューヴ河の線に続々と到着し、ノイブルクを中心に北方を警戒していたキーンマイヤー中将のオーストリア軍1万6千を東南へ退ける。ダニューヴを越えた各軍団は南下し、ランヌ、ネイ、スールトが西へ転じてウルムへ向かう。この時点でウルムから東の連絡戦は完全に遮断され、10月20日にはマック元帥がウルムで降伏する。これによってオーストリア軍は当面のドイツでの作戦能力を失う。 ダニューヴに沿って大陸軍各軍団は複数のルートに分かれてウィーン目指して東進するがこれを阻止する兵力は連合国側にはなく、11月2日にはウィーンが陥落。さらに北上しアウステルリッツに来援したロシア軍およびオーストリア軍残余を完膚なきまでに粉砕し、ここに第三次対仏大同盟は崩壊した。 ④ 第四次対仏大同盟 翌年、第四次対仏大同盟が結成されると、ナポレオンの矛先はまずプロイセンに向かう。この時のフランス軍は、ライン河からダニューヴ河にかけての地域及びマイン河沿いの広域に分散していた。また北イタリアにも兵力があり、ヨーロッパ大陸を南北に縦断する形で正面を形成している。このうちドイツにある16万の兵力が開戦とともに一斉にプロイセンに向けて行動を起こす。 9月末から10月初頭にかけて、各軍団は順次宿営地を進発した。前年のアウステルリッツの戦勝に意気上がるフランス軍は士気、練度ともに高く装備もよかった。 対するプロイセン軍は総兵力25万。しかし要塞守備などに兵を割いたため作戦し得るのは17万、その主力を三集団に分かちホーヘンローエ、ブランシュバイク、リュッヘルが各々指揮する。 ⑤ 行軍速度の差 プロイセン軍としては空間と時間をトレード・オフし、同盟国ロシアの援兵を待って数的優位を確保してから決戦を挑むか、フランス軍の侵入経路であるチューリンゲン・ヴァルトと呼ばれる高地森林地帯の出口で待ち受け決戦するかのいずれかであった。国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の指導力欠如も手伝い、戦略方針が後者に決定した時、フランス軍はすでにチューリンゲン・ヴァルトの手前に達している。 さらに悪いことに、分身してくるフランス軍の主攻撃軸がどこにあるかを見分けられず、それがわかったときには、迅速な機動による兵力集中がおこなえない。輜重部隊が巨大に膨れ上がっており、行軍速度がフランス軍の半分にも満たないのだ。 ⑥ プロイセン軍総崩れ かくしてフランス軍は、何ら妨害を受けることなくチューリンゲン・ヴァルトとフランケン・ヴァルトの隘路を三縦隊に分かれて突破し、10月13日にはイエナにおいてホーエンローエ公の3万5千を捕捉。激戦の末、翌14日には敗走させる。同じ14日に、ホーエンローエ軍の左翼に進出し背後を脅かそうとしたダヴ―軍団は、アウエルシュタットで来援してきたブランシュバイク公の6万と遭遇して、兵力的に劣勢であったにもかかわらず、これを撃破した。 このイエナおよびアウエルシュタットの敗北によって、プロイセン軍は総崩れとなり、ベルリンに向けて退却を試みたが、再び三集団に分かれたフランス軍の追撃は急で、退路を遮断されてベルリンから切り離された。 10月25日にはベルリン陥落、プロイセンは降伏して戦争より脱落。来援の途上にあったロシア軍は停止を余儀なくされた。 この1805~6年の戦役において、フランス軍は分進、集結、決戦のパターンを繰り返した。ナポレオンは麾下の軍団を高速、自在に運動させて勝利をものにした。ここでは、ナポレオンの戦略の五原則がすべて満たされており、旧式なオーストリア、ロシア、プロイセンの軍隊は全く対応することができず、完膚なきまでに粉砕されたのである。 |