ナポレオンの内政
1.官僚制の拡充と貴族制の復活
~近代官僚制の起源~
 

 フランスの近代官僚制の起源とは
フランスにおける近代官僚制の起源は、絶対王政期に原型があり、ナポレオン統領制・帝政期にさかのぼる事が可能とする説と、議会制度の伸長に見られる復古王政・7月革命になって、議会対策のための様々な処置を講じる大臣官房ができてからとする説がある。
ナポレオン時代には、議会対策に限定されたわけではないが、皇帝に秘密通信員、大臣の次官、参事官の陪席官、県知事の知事官房室長がついていて、情報の収集、法案の準備、選挙対策などを行い、全体として統一的な指揮系統に属しながら、官庁の個別部局が独自の意思決定とその遂行機関を持っていたのである。
革命前の官僚制度であるが、国王監察官を以て県知事の先駆的官職とみなし、近代官僚制度がルイ14世の時代に起源があるという見方がある。フランス革命前の官僚制度は、革命を経てどうなったのか。委任官の華と言われた国王監察官や、長い間フランスの官僚制度を特徴づけた官職保有者の群れは、どこに消えたのか。廃止されたのは事実だとしても、単に廃止されたわけではなく、その余燼は必ず残った。その余燼の中からナポレオン官僚が出現する。
 国王監察官
革命前、32程度の管区にそれぞれ配置されていた国王監察官ポストは、1775年のチュルゴ財務総監の頃から、名門貴族の巻き返しが始まり、爵位の古い貴族の再進出が見られる。それはちょうど、軍隊の高級将校のポストが、法服貴族によって子弟のために買い取られ、占有化される勢いであったのに対し、旧家の貴族が、セギュール陸軍大臣の下令によって巻き返しを図ったのにも似ていた。
それは中世以来の戦士身分である封建貴族の手に軍職を取り戻すという意味のほかに、軍事的能力を発揮し得る実戦経験者にこそ、あてがわれるべきであるという観念も存在した。
これは、後のナポレオン軍の高級将校の中に、ラ・ロッシュフーコーやコーランクール等のれっきとした名門貴族出身者が名を連ねていたことの説明にもなり、重要である。
国王監察官の場合、管轄地域(アンタンダンス、概ね州と一致)の慣習や施行法に関する知識、地方三部会との交渉能力、新勅令実施の決断力、シュブデレゲや収税官等の下僚を指揮する手腕や経験が試された。
そうした仕官者が優先されることは、「財力に裏付けられた才能に応じた官職就任の平等」の原則に叶うものであった。だから、国王監察官に在職した者は、この官職自体が廃止されるとしても、革命側に立って新たな仕官者となってもよいはずであった。それがそうならなかったのは、官職の理念に付着した、忠誠心の対象にあった。
 権力分立に馴染みにくい
もともと、国王監察官への登用は、擬似封建的な臣従関係で繋がった宮廷有力貴族の推挙により、それを財務総監が国王に対し推挙するのが良く見られるケースであった。仕官者は宮廷貴族の恩顧の網を介して国王とつながりを持ち、国王の名の下で任務遂行に当たった。
ところが、このブルボン家の王は、自らを国家の大義と一体化することに失敗した。1791年6月のヴァレンヌ逃亡が、このことを如実に示している。ブールドネ・ブロサックやセナック・ド・メイヤンなど、以前の国王監察官が、やはり相次いで亡命ないし帰国を断念していた。権力の分立という1789年の思想に、国王監察官はなじみにくいということもあったようだ。かくして1788年の国王監察官から1800年に初任となる県知事への転進は一例も見られないのである。帝政末期から復古王政で知事職に任命されたものについても同様であった。




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