ナポレオンの内政 2.ナポレオン法典 ~野望実現のための法典~ |
地下墓所の回廊の壁には、ナポレオンの功績を顕す六面の浮き彫りがある。その一つの中の「法典」と名付けられた浮き彫りには、ナポレオンがローマ風の衣服を身にまとい、王座に座している。ナポレオンは、ローマ法大全/ユスティニアヌス法典」と書かれた書物に右手を置き、「ナポレオン法典/万人にとって平等であり、理解可能な正義」と刻まれた書物に左手を置いている。この浮き彫りを見ると、ナポレオンはローマ法を受け継ぎ、ナポレオン法典を制定したことを知る事ができる。 「フランス人の民法典」いわゆるナポレオン法典(1807年に改称)が制定された直後、1804年5月18日、元老院評決を受け、ナポレオンは「フランス人の皇帝」の座についている。この二つの事実の間には何があり、この間をつなぐものは一体何か? ナポレオンは、第一執政に就任して以来、皇帝になることを夢見ていた。ナポレオンはこの野望を実現するには、統一民法典の制定が不可欠であり、ローマ帝国の栄光を背景にしなければならないことをはっきりと自覚していた。 では、なぜ民法典制定がその野望実現にとって不可欠であり、またローマ帝国の栄光が必要であったのだろうか。
しかし、そのどれ一つをとっても打ち破る事が困難であることは、火を見るより明らかであった。ナポレオンは、この難局に当たって、何を考えたのであろうか。 ナポレオンの頭に去来するのは、幼い頃から愛読し、暗記するほどまでになっていた「ブルターク英雄伝」のカエサルの姿であった。ナポレオンは、困難にぶつかる度に、自らをカエサルになぞらえ、ローマ帝国の栄光を思ったのである。
さらに、ユスティニアヌスは、帝位につくと、直ちに法典編纂に着手し、その事業は「ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)」となって後世に絶大な影響を与えた。ナポレオンは、この法典のうち「学説提要」を空んずるまでになっていたという。立ちはだかる敵の姿をローマの時代に求め、もし自分がカエサルならば、もし自分がユスティニアヌスであるならば、どう行動し、どう敵を打ち破ったであろうか。これこそ、ナポレオンの心の中から決して離れる事の無い問いかけであった。 |