石田三成からの手紙 ② 直江兼続宛て |
~手紙の内容~ 書状ありがとうございます。このたび、人質を上洛させるとのこと、よくよくお考えいただき、秀吉も満足しています。詳しくお知らせください。これよりはどんなことでも使者をもって申し入れてください。 天正11年(1583)7月11日 直江兼続宛 三成・増田長盛・木村清久連署状 |
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秀吉はまだ天下取りへの階段を昇り始めたところであり、その近習である三成の地位も高くはなかった。そして兼続は上杉家中では確固とした地位を占めていたとはいえ、信長によっていったんは滅亡寸前にまで追いつめられた地方領主の家臣に過ぎなかった。当時、この程度の地位の人物は数多く居り、全国的にはまだ無名の人物同士であった。 この二人が初めて交わした書状も、あくまでも公式なものである。お互い顔を知らず、名前も知らなかった中で初めての書状を交わした二人。だが三成の文面は丁寧で、相手への敬意に満ちている。三成の上杉家に対するこの姿勢は終生変わることはなかった。 だがこの時点では、上杉景勝と秀吉の関係は決して良好とは言えなかった。北国の柴田勝家の敵対していた秀吉は、その背後を突く存在として上杉景勝に期待していたのだが、それに対する景勝の動きは鈍かった。景勝は叛乱相次ぐ越後の平定に力を注がざるを得なかったのだが、秀吉は苛立ち、勝家滅亡後に上杉討伐を公言するほどであった。 この書状は、こういった緊迫した関係の中でやり取りされたものであり、景勝側が人質を出すことで、漸く両者の関係は修復された。当時景勝は、秀吉に完全に臣従していたわけではなく、臣従前のこのような関係で一方的に人質を出すのは珍しいことであり、三成・兼続らの陰での苦労が窺われる。
三成と上杉主従の関係は良好であったが、その一方で実はまだ大きな問題が残っていた。領土問題である。 景勝の膝下、越後で秀吉に臣従していた勢力は、景勝だけではなく、新発田重家も秀吉に通じていた。新発田は、現在の新潟平野付近に大きな勢力圏を持ち、長く景勝の越後統一を阻んでいた。上方の状勢に敏感な新発田は早くから信長に通じ、勝家滅亡後には秀吉にも好を通じていた。景勝は秀吉政権の後ろ盾を得て新発田重家を倒すことを望んでいたが、それは簡単なことではなかった。 大名間の私戦停止・天下の惣無事をスローガンとして天下統一を果たそうとしていた秀吉政権にとって、景勝の願いは簡単に聞き入れられることはなかったのである。 そして秀吉周辺では、新発田重家の赦免の動きも出ており、苛だった景勝・兼続主従は三成をも責めたようである。
上杉家を豊臣政権の東国政策の中心に置きたいという三成と、秀吉の力を借りて上杉家の基盤強化を図りたいという兼続。両者の利害はこのとき、よく一致していたといえるだろう。 しかし、両者はさらに新たな試練を乗り越える必要があった。上杉家の会津転封である。伊達・徳川ら東国の大勢力に対する抑えとして、会津の地は重要であり、豊臣政権では当初名将蒲生氏郷をその地に宛てていた。しかし、氏郷が文禄4年(1595)に40歳で急死した後、幼い当主、秀行の元で家中が乱れた。さらに蒲生家は秀吉の期待に反し、家康に近づく動きもあった。このまま蒲生家に会津を任せることはできず、代わりにその地を誰に任せるかは、豊臣政権にとって重要な選択だった。 そして白羽の矢が立ったのが、上杉景勝である。父祖伝来の地・越後を去ることは、景勝にとって耐えがたい思いではあったが、会津に転封して国人の影響を排し、大領を得て自家の基盤を強化することは、長い目で見れば上杉家にとっては望ましいことであった。 三成・兼続は共同してこの会津転封をやり遂げ、この試練を経て景勝は遂に五大老の一員となった。三成・兼続が初めて書状を交わしたときは、わずか30万石程度の所領にまで追い込まれていた上杉家は、豊臣政権の一翼を担うことで、その四倍もの大領を得ることになったのである。 この二人の邂逅がもたらした結果は、後にさらに天下を大きく揺るがすことになる。 |