南都六宗の思想
 ~南都六宗~
 


 太子死後の仏教界
聖徳太子死後の仏教界も様々な出来事が起こった。大化の改新が起こった大化元年(645)、孝徳天皇は多くの僧侶を指導する役の「十師」を任命し、仏法の興隆に尽力した。天武天皇は、天武天皇2年(673)、一切経を川原寺で写させ、その後、諸国に令して放生会を行わせたり、あるいは使いを遣わして「金光明経」を説かせたりした。僧正・僧都・律師の任命等により僧尼を統制する僧官制度の基盤を形成したり、同14年(685)には、「諸国に、家毎に仏舎を作りて、乃ち仏像及び経を置きて、礼拝供養せよ」と詔して、のちの国分寺制度につながるような政策を展開したりした。持統8年(694)には「金光明経」百部を諸国に送り、正月8日の頃、読誦させたという。
「大宝律令」は大宝元年(701)に完成したが、それには「僧尼令」も含まれ、国による僧尼の管理の条文も細かく規定されることになった。
奈良時代になると、天平7年(735)に玄昉が在唐20年近くを経て、経論5千余巻を携えて帰朝する。聖武天皇は、同13年(741)に国分寺・国分尼寺造営の発願、同15年に盧遮那仏(大仏)建立の発願を発表し、天平勝宝4年(752)には、大仏開眼の式典が盛大に行われた。鑑真が来朝したのは同6年(754)、翌年、東大寺に戒壇院が建立され、天平宝字5年(761)、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に戒壇が建立されている。この後、767年に最澄が生まれ、774年には空海が生まれるなど、新たな時代を望む動きが胎動し始めた。
 南都六宗
奈良時代の仏教は、一般に南都六宗と言われる。天平19年(747)の大安寺等の「伽藍縁起幷流記資材帳」によれば、三論・別三論・成実・法三・律・華厳・摂論・修多羅等の諸宗がいたが、天平勝宝年間には、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗のいわゆる六宗の概念が確立されたようだ。
三論宗は、龍樹の「中論」「十二門論」とその弟子・提婆の「百論」の三つの論に代表される思想を学ぶ学派で、インド中観派の流れをくむもの。大安寺や元興寺、東大寺でも学ばれた。
成実宗は、小乗と大乗の中間的な教えを載せる「成実論」を学ぶ学派だが、三論宗の寓宗(独立せず他宗に付属している宗)と言われ、三論宗の中で学ばれたという。
法相宗は、玄奘三蔵訳「成唯識論」という根本聖典を学ぶ学派で、無著・世親のインド瑜伽行派(唯識学派)の流れを汲む。薬師寺・興福寺などが有名である。
 修業より学問を重んじた奈良仏教
倶舎宗は、その世親の「倶舎論」を学ぶ学派だが、これも法相宗の寓宗であったと言われる。「倶舎論」の諸法の分析は、大乗仏教としての唯識の教理にも大きな影響を与えており、「唯識3年、倶舎8年」(倶舎論を8年かけて学んでおけば、唯識は3年で済む)という言葉さえ伝えられている。
華厳宗は「華厳経」とともに、唐の時代に華厳の思想を体系化した智儼・法蔵らの思想を学ぶ各派である。東大寺の大仏は「華厳経」の教主(盧遮那仏)である。
律宗は、戒律について学んでいく学派である。主として中国の南山道宣による「四分律」解釈を学んでいく学派である。但し戒律の事はどの宗派の者であれ学ばなければならなかったわけで、律宗は他の宗にも開かれていた。唐招提寺の招堤(四方)には、その意が込められている。
これらを見ると、奈良時代の仏教は、修業よりも学問の性格が強いと感じられる。これは、哲学・思想の研究が盛んになされていることが、一種の国威発揚につながると考えられたのだろう。また、僧尼の役割としては鎮護国家に多くを期待されていたのだろう。だがこの中でも三論・法相・華厳と言った思想には、今日から見ても色あせない深い哲理が論じられている。


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