中津藩士
 ~諭吉誕生~
 


          誕生後すぐに父が死去
福沢諭吉は、天保5年(1835)12月12日大坂堂島の豊前国中津藩蔵屋敷内で、福沢百助の第五子として生まれた。諭吉は末子である。しかし、天保7年(1836)、父百助は亡くなり、生後18か月で中津に帰ることになった。
諭吉が生まれたとき、父百助は42歳、中津藩士で中小性格、13石2人扶持、廻米方として大坂に在勤していた。足軽よりは高いが、武士としては低い階級であった。当時大名たちは、その領地で取れた米やその他の物産を大坂へ送ってこれを売り、藩財政を賄っていた。それだけでなく、大坂商人からの借金も藩財政にあてるようになっていたのである。その事務を処理するために大坂に蔵屋敷が置かれていたのであり、百助は、ここで大阪の金持、加島屋・鴻池といった大商人と交際して、藩債の事を担当する役にあった。百助はこういう事が不満でたまらなかったという。金銭何ぞ取り扱うより読書一偏の学者になっていたいという考えであったという。諭吉の封建社会に対する不満は、父親譲りともいえよう。
 諭吉の名の由来
諭吉が明治9年(1876)7月に記した「福沢諭吉子女之伝」んいよると、福沢家がはじめて中津候奥平家に仕えたのは、曽祖父友米のときで明和年間のことであった。足軽となり、江戸への参勤交代のお供などで往復すること11度、その後小役人となって大坂に勤番し、生涯公務にあった。その後継の兵左衛門は、中村姓で友米の一女に迎えた養子であった。兵左衛門は活発で山奉行などを勤めた。この人に三男三女があり、その長男が百助である。「勤直にして才力あり、好て書を読む」と諭吉は記しているが、下級の会計吏であったが、優れた漢学者であった。伊藤東涯の学流を汲み詩文を好くし、その蔵書はかなりの数にのぼった。その親友に江州水口藩に仕えた漢学者中村栗園がいる。諭吉の兄や姉は全く儒教主義で育てられた。諭吉が生まれた日は、百助が多年望んでいた「上諭條例」64冊が入手できた日であった。この本は、清朝乾隆帝治政の招令集で、我が国内では貴重なものであった。諭吉の名はこの書名にちなんでつけられたのである。
 中津の風俗に溶け込めなかった福沢家
百助は大坂に在勤すること15年、天保7年6月18日急死した。「病症、脚気中の頓死なりといふ。詳ならず。」と諭吉は記している。享年44.百助の妻、すなわち諭吉の母は同じ藩の橋本氏の女で、お順といった。
福沢母子は中津に帰り、兄三之助は10歳で家督を相続して、中津藩における生活が始まった。ここには、従兄弟が父方母方をあわせると何十人とおり、また、近所の子供もたくさんいた。
しかし、大坂で育った福沢一家は言葉遣いや髪かたち着物の着付けなど生活様式が中津の風俗と違い、周囲に溶け込むことができなかった。兄弟姉妹は自然と内に引っ込んで自分達だけで遊ぶようになった。そして母と五兄弟、他人を交えず世間との交際は少なく、明けても暮れても、ただ母の話を聞くばかりで、脳裏には父は生き続けていた。諭吉が、少年の時から家にいて、よくしゃべり、飛び回り跳ね回りして至極活発でありながら、木登りが不得手で水泳も全然できないというのも、同藩中の子弟と打ち解けて遊べず孤立していたせいであろうという。家風は至極正しかった。俗士族は祭りの時に芝居が興行されると布令を犯して見に行ったものだが、福沢の家人だけは行く事もしなければ噂にもしなかったという。




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