中津藩士 ~諭吉誕生~ |
諭吉が生まれたとき、父百助は42歳、中津藩士で中小性格、13石2人扶持、廻米方として大坂に在勤していた。足軽よりは高いが、武士としては低い階級であった。当時大名たちは、その領地で取れた米やその他の物産を大坂へ送ってこれを売り、藩財政を賄っていた。それだけでなく、大坂商人からの借金も藩財政にあてるようになっていたのである。その事務を処理するために大坂に蔵屋敷が置かれていたのであり、百助は、ここで大阪の金持、加島屋・鴻池といった大商人と交際して、藩債の事を担当する役にあった。百助はこういう事が不満でたまらなかったという。金銭何ぞ取り扱うより読書一偏の学者になっていたいという考えであったという。諭吉の封建社会に対する不満は、父親譲りともいえよう。
福沢母子は中津に帰り、兄三之助は10歳で家督を相続して、中津藩における生活が始まった。ここには、従兄弟が父方母方をあわせると何十人とおり、また、近所の子供もたくさんいた。 しかし、大坂で育った福沢一家は言葉遣いや髪かたち着物の着付けなど生活様式が中津の風俗と違い、周囲に溶け込むことができなかった。兄弟姉妹は自然と内に引っ込んで自分達だけで遊ぶようになった。そして母と五兄弟、他人を交えず世間との交際は少なく、明けても暮れても、ただ母の話を聞くばかりで、脳裏には父は生き続けていた。諭吉が、少年の時から家にいて、よくしゃべり、飛び回り跳ね回りして至極活発でありながら、木登りが不得手で水泳も全然できないというのも、同藩中の子弟と打ち解けて遊べず孤立していたせいであろうという。家風は至極正しかった。俗士族は祭りの時に芝居が興行されると布令を犯して見に行ったものだが、福沢の家人だけは行く事もしなければ噂にもしなかったという。 |