藤原氏の成立 ~乙巳の変~ |
クーデターは6月12日、「三韓進調」という儀が「日本書紀」によると「大極殿」で行われた。入鹿が殺害されたのは、その前庭でのことであった。古人大兄王子お皇極の傍らに伺候してたというが、むしろこちらが主要な標的として呼び寄せられたのかもしれない。 石川麻呂が上表文を読み上げ終わりかけていた頃、長槍をもって隠れていた中大兄皇子が入鹿に突進し、剣で頭と肩を切り裂いた。入鹿が立ち上がると、子麻呂が片脚を斬った。「日本書紀」も「藤氏家伝」も、この後、入鹿が皇極の座に転がりついて、自分に何の罪があるのかを聞いたことになっている。 これに対し、皇極の下問を承けた葛城王子が「鞍作(入鹿)は天宗(王族)を滅ぼし尽くし、皇位を絶とうとしております。鞍作のため天孫(大王家)が滅びることがあってよいのでしょうか」と語ったというのは、「日本書紀」「藤氏家伝」両社とも作文甚だしいものである。
「天宗を滅ぼし尽くす」というのは、山背大兄王や上宮王家の討滅を指すのであろうか。それと自らが天孫と変わろうという野望を抱いていたと短絡させるのは、どう考えても論理的ではない。 「日本書紀」において、斬られた入鹿が開口一番、「皇位にあられるべきは天の御子でございます」などと訴えているが、そんなことを訴えるのも変な話である。速い話が、「皇位簒奪を企てた逆臣蘇我氏」と、「それを誅殺した偉大な中大兄王子、それを助けた忠臣中臣鎌足」という図式で、クーデターを描こうとしていたのである。 それにしても入鹿としてみれば、権力を自己に集中させ、飛鳥の防衛に腐心して激動の北東アジア国際情勢に乗り出そうとしていた矢先に、いきなり切り殺されてしまった事になる。斬られた後「私が男の罪を犯したというのでごあいましょう」という言葉も、本当に発したとは思えないが、まさに入鹿の思いを象徴したものであろう。
つまり、鎌子はこのクーデターの現場においては、何ら具体的な行動を起こしてはおらず、作戦の立案を行ったあとは、その実行を距離を置いて見守っていたのだろう。まさに策士の面目躍如といったところである。 一方で、古人大兄王子は、この惨劇を見て現場を脱出し、私邸に走りかえったことが「日本書紀」のみに見える。葛城王子が入鹿の殺害にことのほか手間取ってしまった事で、取り逃がしてしまったのであろう。 いずれにせよ、たとえ傀儡であるにせよ自分を大王位につけてくれるはずの入鹿が滅びてしまった以上、古人大兄王子の命運は尽きてしまった。自分がクーデターの標的であったことも、すぐに直感したであろう。また、この現場で取り逃がしたと言っても、葛城王子が古人大兄王子を放っておくはずがなかった。 |