藤原氏の成立
 ~権力者への接近~
 


 軽王への接近
はじめ、鎌子は軽王(後の大王孝徳)に接近した。「日本書紀」では、鎌子が以前から軽王と親交があり、軽王も鎌子の心ばえが優れており、立ち居振る舞いの犯し難いことをよく知っていたと、二人の好誼を記している。鎌子が宮に参上するするやいなや、軽王が寵妃阿部氏に給仕させるなどのもてなしを行い、鎌子がそれに感激して、「軽王が天下の王となられるのに、一帯誰が逆らえようか」と軽王の舎人に語り、それを知った軽王が喜んだということになっている。
一方、「藤氏家伝」では、軽王から優遇を受け、「どうして軽王を帝皇としないことがあろうか」と語り、それを知った軽王が喜んだところまでは「日本書紀」と同じだが、最後に軽王の器量がともに大事を謀るに足らないことを語っている。もちろん、乙巳の変の後に軽王を即位させたこと、そして次に登場する乙巳の変の真の主役である葛城王子を引き出すための文脈であろう。
ここで「藤氏家伝」「日本書紀」ともに、鎌子と葛城王子との出会いを語り、二人が胸襟を開いたことを続ける。「藤氏家伝」では蹴鞠の場で葛城王子の靴が落ちたことを語る他、簡略な記述であるのに対し、「日本書紀」では二人が出会った場所を法興寺(飛鳥寺)の槻木の下と明示しており、葛城王子が興じていたのは蹴鞠ではなく打毬と異なる設定となっている。二人が相談したのも南淵請安の学堂への往還の途上としている。
 葛城王子と手を結ぶ
鎌子が葛城王子と策を謀った理由として、「日本書紀」は「蘇我臣入鹿が、君臣長幼の助を破り、国家を我が物にする野望を抱いていることを憤った」としているのに対し、「藤氏家伝」では「王室が衰微し、政が君によらなくなった。大臣(鎌子)はひそかに慷慨した」ということになっている。いずれにせよ、入鹿が専横であって、大王の権力を奪おうとしていることに帰している。クーデターを正当化するためには、これが最も説得力を持ったのであろう。
なお、「藤氏家伝」では、葛城王子から鎌子へ「奇策」の進言を持ち掛け、鎌子が「乱を収め反を正す謀」を述べると、葛城王子が喜んだという文脈となっている。鎌子主導の乙巳の変を強調するというのが「藤氏家伝」の主題なのであろう。
実際には、ともに唐の最新統治技術を学んでいた入鹿と葛城王子、それに鎌子は、いずれが主導権を握って国際社会に乗り出すかで、抜き差しならない対立関係に踏み込んでしまっていたのである。そして鎌子が選んだのは、葛城王子および官僚制的中央集権国家の方だったことになる。
 蘇我石川麻呂との連携
次いで二人は、蘇我倉氏の蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き入れた。「日本書紀」では、「大事を謀るのに、助けはある方が宜しい」と単純な理由になっているが、「藤氏家伝」では「勢門の佐け」を求めようとしたこと、石川麻呂が「鞍作(入鹿)と相憎むことを知っていた」ということ、石川麻呂の人物が「剛毅にて果敢で、尉望もまた高い」という記述を加えている。後に中大兄王子が石川麻呂を無実の罪で死なせてしまった事、「日本書紀」が石川麻呂の孫にあたる持統や元明の主導で編纂されていることが影響しているのだろう。
それに対し「藤氏家伝」は蘇我氏内部における本宗家と他の氏との対立に付け込んだという文脈となっており、こちらが実際の状況に近いのだろう。鎌子は、蘇我氏内部において、蝦夷から入鹿への大臣の直系継承を快く思っていない勢力が存在することを、鋭く見抜いていたのである。
鎌子が石川麻呂の長女を葛城王子の妃として両者を結び付けようとし、葛城王子もこれに同意した。ところが、その長女は婚姻の日に石川麻呂の弟の日向に偸まれてしまった。結局、次女の遠智娘が葛城王子の妃となり、後に大田王女・持統天皇・建王子の三人の子を生むこととなる。

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