藤原氏の成立
 ~中臣鎌子の野望~
 


 激動の北東アジア情勢
618年、中国大陸では唐が興り、翌年には隋を滅ぼし、628年に中国大陸をほぼ統一。さらに周辺諸国を圧迫していった。唐は630年に東突厥を支配下に置き、640年には高昌を滅亡させ、次に隋がなし得なかった高句麗征討を目標に定めた。
北東アジア諸国では、この唐の圧迫に対処するための権力集中が政治の眼目とされた。百済では641年、義慈王がクーデターによって専制権力を掌握し、642年以降新羅領に侵攻して旧伽耶地区を奪回した。高句麗では642年、宰相の泉蓋蘇文が国王と大臣以下の貴族を惨殺して独裁権力を握り、百済と結んで新羅領に迫った。新羅は唐に救援を求めたが、唐による善徳女王交代の提案の採否を巡って、647年に内乱状態となった。金春秋(後の武烈王)は648年に唐に赴き、協力を求めた。唐の太宗は、645年から高句麗征討に乗り出す。このような激動の北東アジア情勢は、いち早く倭国にももたらされた。倭国からも三国に使者が派遣され、情勢の把握に努めた。
倭国においても、早急な権力集中が必要になったのは当然のことである。当時、大臣蘇我蝦夷の嫡男である入鹿が父を凌ぐ勢威を振るっていたが、入鹿は権臣個人が傀儡王を立てて独裁権力を振るうという、高句麗と同じ方式の権力集中を目指していた。既に権力の座にあった入鹿としては、自分自身の権力で激動の北東アジア国際情勢に対処しようとしたのであろう。
蝦夷から柴冠を授けられて大臣位を継承したばかりの入鹿は、皇極2年(643)11月に上宮王家(蘇我系王統傍流)を討滅した。これが近い将来の古人大江王子(蘇我系王統嫡流)の擁立の階梯である事は明らかであった。そしてその次の段階で邪魔となるのが非蘇我系王統嫡流の葛城王子(中大兄王子)であることも、誰の目にも明らかとなったのである。
 国家体制整備による権力集中を目指した人々
一方、隋唐革命を経験して帰国した留学生や学問僧から最新の統治技術や王朝交替の実態を学んだ者の中からは、国家体制を整備することによって、官僚制的な中央集権国家を建設し、権力集中をはかろうとする動きが興った。有力王族が権力を掌握し、それを権臣が補佐するという方式は、新羅と共通するものであった。
ここで中臣鎌子(鎌足)が登場する。恵美押勝(藤原仲麻呂)によって天平宝字4年(740)に編まれた藤原氏の家伝である「藤氏家伝」上巻は、先ず鎌足という諱と仲朗という字、父が中臣美気祜(御食子)、母が大伴夫人という系譜、推古34年(626)の出生、それに仁孝にして聡明叡哲な人となりと風姿と偉容を語っている。
なお、鎌足の没年は56歳とされており、逆算すると生年は推古22年(614)となる。鎌子(のちの鎌足)の出生地「藤原之第」は「多武峯縁起」によれば大和国高市郡大原にあったとされる。蘇我氏の勢力圏内である飛鳥寺の至近である。現在の奈良県高市郡明日香村小原に大原神社が鎮座し、鎌足出生の地と伝えている。
先祖を天児屋根命とする氏族伝承がどの時点で形成されたのかは明らかではないが、おそらくは記紀神話、特に天孫降臨神話の形成と軌を一にして成立したものと思われ、あまり古い時期ではなかったと思われる。
 入鹿と方向性を逆にする
鎌子は、「日本書紀」によれば皇極3年(644)、「藤原家伝」によれば「崗本天皇(舒明)の御代の初め(630年代か)」、「良家の子を選んで錦冠を授け、宗業(鎌子の場合は神祇)を継がせた」として「神祇伯」に任じられようとしたものの、病と称してこれを固辞し、摂津国三島郡の別業に帰去したとある。実際には舒明朝の時期のことであったのだろう。
神祇の分掌などという「宗業」を分掌していたのでは、倭国全体を自分の思うように動かすことはできない。かといって、入鹿と協力するとなると、その下風に立たねばならない。鎌子の選んだ道は、すでに大臣位に継いで権力を掌握している入鹿とは、必然的にその方向を異にするものとなったのである。

TOPページへ BACKします