幕府を作り上げた人々
 ~有能な代官―大久保長安~
危険視された怪物
 


 栄華を極める長安
大久保長安は慶長8年(1603)、江戸幕府開設後まもなく従五位下、石見守に叙任され、「所務奉行」となっている。これによって長安は代官頭として、勘定頭的な役割を果たし、幕府財政の実権を握る事になった。
長安は八王子の他に桐生、相川などの町も建設している。また、東海道、中山道、甲州道中の宿駅制度を確立するとともに、青梅街道その他の道路や橋梁を整備して、さらに一里塚も築造させるなど、交通行政を管轄している。
また、豪商角倉了以とともに天竜川、富士川、千曲川等の開発を計画する等、河川交通にも力を入れている。そのうえ、江戸城や駿府城の改築や城下の拡張工事にも参画し、また、木曽谷の伐木や運材権も握っていたことから、名古屋築城にあたって作事奉行の筆頭として、おおいに辣腕を振るった。鉱山採掘・用水土木・城郭建築の3つの基本的な技術を身に付けている長安は、次第にテクノラートとして幕政における実験を握っていくのである。
 危険視され始める長安
大久保長安が怪物視され始めたのは、この主要な技術を身に付けていたことと、巨額な財力のあった事である。その財力とはいったいどのくらいあったのだろうか。江戸時代の史書には「諸国より治めさせた金銀は約五千貫目、また蔵に蓄えていた金は70万両、その他の金銀の品物は数知れず」とある。こうした莫大な長安の私財に対して、家康の側近グループが警戒心を強めることになったのは必然的な流れであった。そして、家康自身も長安の不抜な手腕を認めつつも、他方では豪奢な生活や行動力に少なからぬ不安を抱くようになったのである。
 豊臣系大名との交流
長安の妻は、大久保忠隣の叔父忠為の長女と、本願寺の顕如に仕えた下間頼竜の四女である。この頼竜の妻は池田恒興の養女であり、有力な外様大名の池田輝政の義理の姉にあたっている。したがって、長安の妻の姻戚をたどっていくと、豊臣氏の恩顧を受けた多くの大名達にも連なっていくことになる。
長安には七男二女がいたらしい。嫡男の藤十郎は父に似て、かなりの利発者で将来が大いに期待されていたようである。その岳父は信濃国深志城主石川康長であり、次男の外記の妻は、池田輝政の二女という説もある。三男の権之助は幕府奉行衆青山成重の養子、六男の右京の妻は、家康の六男忠輝の家老花井遠江守の女である。
江戸幕府が、以前豊臣系大名の動きに神経を使っている時期において、こうした長安の一族や周辺の関係は、かなり危険なものだったと言ってよい。「日本一のおごり者といわれた長安の個人的財力が、もしも徳川家の経済力を凌ぐようなことが有ったら一大事である。幕閣においても、彼の広大な支配地は、しだいに脅威を感じる存在になっていったことは確かである。




TOPページへ BACKします