幕府を作り上げた人々
 ~有能な代官―大久保長安~
山師の元祖
 


 金銀山の開発で名を挙げる
大久保長安が、その才能を存分に発揮し、その名をとどろかせたのは、金銀山の開発である。
彼はすでに学んでいた甲州流の採掘法に、石見銀山の灰吹法の仕法を吸収し、さらに南蛮技術を取り入れることによって、金銀の発掘に驚異的な成果をあげた。また、そのことは権力者の家康にとって財政基盤の拡充に大きな期待を寄せたのである。
関ケ原の合戦後、中国筋の豊臣氏の鉱山や蔵入れ治の接収は、慶長5年11月、長安と彦坂元正が石見国大森銀山に派遣され、同年に代官間宮彦次郎を美濃国から但馬国生野銀山奉行に任命した時に始まった。翌6年5月には、長安の鉱山管轄の下で、北国筋随一の金銀山佐渡の代官に敦賀の豪商田中清六を任命し、また、この年のにわ石見銀山役人の吉岡隼人らを伊豆国湯ヶ島に派遣して、金山の鉱脈を調査させている。
このように家康は、長安を直接の責任者として、中国・北国・東海筋の大金銀山を敏速に掌握することによって、直轄地の拡大を図っていたのである。
 「山師の元祖」長安
長安の鉱山開発は、灰吹法による銀生産の基本を巧みに活用しながら、それまでの露頭堀から坑道堀、つまり横穴堀に改め、さらにシステムを、山師の請山制(山師に採掘を請け負わせ、領主は一定の運上金を取る)から直山制(採掘に必要な物を領主が支給して、領主の監督下で採掘する)へと切り替えたところに大きな特色がある。また、長安自らも「山師の元祖」といわれているように、鉱脈発見の技術である山相学にかなり通じていたらしい。それは彼自身の武田蔵前衆としての体験によるものであろう。
石見銀山の経営においては、山麓の吉迫の屋敷を拠点に、配下の13人の鉱山役人を巧みに使い、細かい職務分掌によって運営を行っている。しかも代官衆のもとに小代官を配して、実際の山師や地役人の掌握にも努めている。そして、高齢な鉱山役人に対しては、「身の養生肝要候」といたわりの言葉をかけることも忘れなかったのである。
長安は石見銀山の巡見を自ら行っているが、自ら指揮して造り上げたという大久保間歩が、銀山の仙ノ山(銀峯山)の南側の本谷の山中にある。それは高さ2ⅿ70㎝、幅3ⅿの大抗である。しかも最近の研究によると、長安の銀山視察は慶長5年以降、同7年10月、同8年5月、同9年9月、同10年10月から11月、同12年10月頃の計6回に及んだという。

 豪勢な振る舞い?
慶長8年(1603)、長安が佐渡奉行に任命されると、相川を中心とした佐渡金銀山は空前の活況を呈することになった。長安はここでも、それまでの運上入札制(領主への運上額の入札を行い、その落札者に請け負わせる)による経営を改め、直山制を採用している。このため、山師の運上入札制よりはるかに安定した出産額が得られた。長安はそれまで用いられていた灰吹法の他に佐渡では、「水銀ながし」と呼ばれる、16世紀中頃からメキシコやペルーの鉱山で行われたアマルガム法が一時期用いられていたとも言われる。しかし、このアマルガム法は水銀の供給難のため、短期間で消滅したようである。
長安の佐渡への渡海はわずか3回であったようだ。平常は腹心の目代、小宮山民部、宗岡佐渡、吉岡出雲(隼人)らを在島させ、駿府より指示を与え、その報告を受けていたのである。さらに、伊豆金山は慶長11年に彦坂元正が失脚すると、長安がかわって支配を行い、土肥、湯ヶ島、縄地、大仁を中心に盛況をもたらすこととなった。
長安の、こうした石見や佐渡、伊豆への道中は、極めて豪勢なもので、召使いの女7~80人を加え、250人にも及んだと伝えられている。しかし、その真偽のほどは定かではない。家康は長安を金山奉行に命じて、全国鉱山の統一支配化を企てたと言ってよい。長安は石見、佐渡、伊豆に限らず、遠く奥州、南部の金銀山や、蝦夷の知内金山にまで、配下の金堀りを派遣しているのである。




TOPページへ BACKします