幕府を作り上げた人々 ~有能な代官―大久保長安~ テクノラートとして |
家康派、数正によって領国統治の秘密が漏洩することを極度に恐れた。そのため急遽、徳川氏がそれまで用いていた軍事・民政の仕法を全面的に甲州流に切り替えていくのである。こうした状況の中、長安は農政のベテランとして、また、鉱山開発の巧者として、俄かに頭角を現していく。特に、家康は、関東の小田原北条氏への攻略が、秀吉によって明らかにされると、所領五か国に向かって統一した領地支配の政策を打ち出している。こうした動向の中で、長安の存在はますます重視されることになった。天正17年・18年には長安は、国奉行の成瀬・日下部の両人とほぼ同格の地位に置かれるようになったのである。 天正18年(1590)8月、家康は秀吉の命によって、関東へ入国した。このとき長安は代官頭としていち早く関東へ入ったが、特に甲斐との国境にある八王子に陣屋を設けて地方行政の指揮をとっている。長安の主な任務は、それまでの地方巧者としての経験を生かし、伊奈忠次や彦坂元正らの代官頭とともに、家臣団の配置や検地の実施、そして町の建設や市の設置、江戸に直接に結び付く街道を整備することであった。
現在、八王子市小門町の産千代稲荷神社の境内には、「史蹟 大久保石見守長安陣屋跡」という石碑が建っているらしい。ここがかつて長安の陣屋のあったところであろう。現在は周囲に人家が立ち並び、当時の面影を偲ぶことはできなさそうだ。元禄年間に作成された「御代官十八人屋敷跡図」によると、長安の陣屋の三方は土手で囲まれていたことがわかる。また、陣屋の周辺には、配下の八王子代官の陣屋が並んでおり、宗格院の境内には、今も「石見土手」と言われている遺跡の一部が残っているという。 ところで幕府は八王子城の廃城後、甲州口の警備を強化するため、八王子に幕府の親衛隊ともいうべき八王子千人同心を在村させている。これは武田旧臣の旗本を頭として、八王子周辺の有力農民を組頭や同心に組み入れ、10組、500人に編成した、いわば在郷武士団というべきものである。後に同心数が1000人になったことから、千人同心と呼ばれたのである。 また、八王子には、関東諸地域の民政を担当した八王子代官も在住していた。この代官は15名もいて、武田旧臣の甲州系代官を中心とした地方巧者の集団であった。長安は、小門陣屋でこうした軍事・民政の両面を総合的に把握しながら、関東の領国支配に当たった。
検地は、領主が所領を把握するために実施した、重要な土地調査である。この検地によって年貢の基準を確定するには、複雑な計算と技術が必要であり、相当の技術集団としての熟練や経験が必要である。 石見検地は、長安の特有な仕法により広く彼の支配領域で行われているが、時には長安自ら各地を巡見して実施している。しかし、その多くは出先機関に配置された腹心の代官や手代わりによって行われている。もちろん、その狙いは隠田を摘発し、年貢負担者を定め、石高制を中心とした年貢収納の条件を作り出していくことにあった。 慶長5年(1600)の関ケ原の合戦は、天下分け目の合戦であったが、徳川氏はこの勝利によって覇権を確実なものとした。 この間、長安は主として小荷田奉行として物資の輸送に当たったが、特に、木曽時によって東軍の徳川秀忠の進行を阻んでいた尾張国犬山城主の石川貞清を、木曽氏の旧臣山村良勝、千村良重を登用して潰走させたことは、軍略上の優れた手腕であったと言われる。 徳川氏は関ケ原の勝利によって、豊臣方の没収地632万石を幕府直轄領や徳川一門に分配したり、譜代大名の創出に宛てている。そして、これを契機として長安の支配領域も関東から甲斐・美濃・駿河・大和・石見・信濃・越後・佐渡・伊豆といった地域に拡大し、数年を出でずして「天下の総代官」と称されるようになった。その支配石高は実に120万石に及んだという。 慶長6年(1601)、長安の故郷である甲斐国が再び徳川氏の所領になると、長安は甲府城代平岩親吉の下で国奉行に任ぜられている。そして直ちに山梨・八代・巨摩の三郡に石見検地を実施している。同12年に領主徳川義直が尾張国へ転封すると、甲斐国の支配の実権は長安に移った。また、慶長8年に家康の六男松平上総介忠輝が信濃国川中島14万石に封ぜられると、その行政を全面的に補佐しており、忠輝が越後国に転封されると、これに従い民政に参画している。 |